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堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、在住30才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

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たしなむべし。
歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。
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東北地方の堀氏
仙台藩の堀氏
「年代は不明ながら、近江国より奥州へ移りし流れあり。戦国時代の後期、堀甚七郎則治は出羽国上田に住す。その子は伊勢友忠、その子源兵衛友重は元和七年より伊達政宗に仕え、鷹師組士となる。累進して三百七十五石余を知行し、子孫は左の系を伝えたり」
とあり、友重の子二人と弟二人の家系が藩士として続いたよう。

出羽国飽海郡の堀氏
「出羽国飽海郡の観音寺城主は、戦国時代末期には来次出雲守氏秀なりき。その家臣堀大膳に三子あり。長男の市郎左衛門は父と共に米沢に移り、次男の兵助、三男の大膳(父と同名)は旧地に留住し、藤塚の地を開拓せり。新領主の酒井候から召さるゝも、辞退して受けず。子孫は村の大肝煎(大庄屋)となる。」
郷土史上の名士が多いといふ。

庄内藩の堀氏
「美濃国赤鍋村出身の堀氏も見ゆ。堀直寄の家臣たりし堀治太夫三親は、正保四年に庄内に来りて酒井忠勝に仕え、三百石を給せらる。子孫相続して藩の重臣、加増して七百石となりし彦太夫三久、その子彦太夫三誠(六百石相続)、平太夫季雄(百石分知)などの名士も多し。」
家紋は丸に釘抜、新潟や横浜に住んだ家系もあるそう。茜部は赤鍋と書かれることもある。『寛永諸家系図伝』も赤鍋になっている。音だけ聞いて茜部の字が出てくる人はいないからか。

秋田県の堀氏
「秋田県由利郡大内町に旧家の堀氏あり。此の地方には由緒の深き名家が数多く見ゆ。」

津軽藩の堀氏
「弘前の津軽藩士の堀氏は美濃国出身の人、堀彌三郎を上祖とす。此の人は慶長五年に大垣にて討死。その子伝右衛門は池田長幸に仕えて二百石を知行。その子五郎左衛門正成に到り、慶安三年に津軽信義に召出され、三百石を給せらる。これより伝左衛門利盛を経て、主計利広あり(始め五郎左衛門、弾正)。加増して一千石知行。家老職を勤めて享保四年に死す。子孫相続して利広の玄孫、五郎左衛門利安は、好学の士にて内外に知られたり。」

領主から召される(我に仕えよ、と呼び出される)話が多い。堀家が優秀だったのか、人材不足の時代だったのか。今の時代からしたら、うらやましいかぎり。

参考文献:『堀一族』 日本家系家紋研究所編 1997



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『堀一族』
先日、父の部屋である本が発見された。

『堀一族』 編集人 日本家系家紋研究所 発売元 日本家系協会 平成九年六月吉日発行
限定五百部(のうち我が家のは276と番号がついていた)

いろいろな氏の『○○一族』が既刊一覧に載っていて、『堀一族』もそのうちのひとつ。父がたまたま新聞の広告欄で見つけて買っておいたらしい。美濃の堀氏についても秀政の家系以外にも他へ移り住んだ人が載っていたし、全国の堀氏について載っていた。順次紹介していこうとおもふが、ここで主なものを挙げると、大和、紀伊地方に藤原氏熊野別当系の堀氏、播磨赤松氏の家臣に菅原姓の堀氏、九州に少弐氏、大友氏庶流の堀氏、そこから薩摩へ分かれた堀氏。越中射水郡の堀氏、嵯峨源氏、清和源氏の堀氏などなど。



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三社託宣
朱子学関係で、お気に入りの文を紹介したし。

「闇斎の父は、その父(闇斎の祖父)の思い出を、こう語っている。人となりは正直で、武への志が強かった。若い頃から古筆の「三社託宣」一幅を大切に持っていて、朝夕にこれを誦え、これに拝謁する時には、必ず手を洗い口を漱いで、羽織袴を身に着けていた。「三社託宣」とは、天照皇大神宮の託宣と称されるものを中心に、左右に八幡大菩薩・春日大明神の託宣とされるものを配当したもので、室町時代から一般に広く流行し、軸装して礼拝の対象ともされていたという。闇斎の祖父も、そういう信仰を持つ一人だったのである。「三社託宣」の内容は、以下のようなものである(字句には多少の異同がある)。

八幡大菩薩   雖為食鉄丸、不受心汚人之物、雖為座銅焔、不到心穢人之処
天照皇大神宮  謀計雖為眼前利益、必当神明之罰、正直雖非一旦依怙、終蒙日月之憐、
春日大明神   雖曳千日注連、不到邪見之家、雖為重服深厚、可趣慈悲之室

 そこで説かれる徳目は、正直・清浄・慈悲であり、人々のメッセージとしてあるのものは、目先の利害にとらわれずに「心」の正直な人間として生きよ、神々は全てを見通していて、「心」の汚れた者には、神々の守護は決して与えられないという処世の教訓である。祖父は、子供たちにもこれを暗誦させ、みだりに手を触れることをさえ許さなかったという。軸装されたこの「三社託宣」は、孫の闇斎に与えられた。祖父は日々の暮らしの中で「三社託宣」に説かれている心の清浄・正直を重んじた、素朴な敬虔さをもった老人だったのだろう。闇斎の祖母は、口数の少ない、しかし気性の烈しい女性であり、闇斎やその姉たちに、よく「身一貫目百貫」という諺を口にして、「目」つまり書物を読むことの大切さを教えたと言われる。」
『山崎闇斎の世界』 田尻祐一郎 ぺりかん社 2006.7

三社託宣の漢文を読み下すと(自己流)、

八幡大菩薩 たとえ鉄丸を食わされようとも、心の汚れた人の物を受け取らず、たとえ銅焔(熱せられた銅)の上に座らせられようとも、心穢れた人のところへ到らず(行かない)。

天照皇大神宮 謀計によりたとえ眼前の利益を為しても、必ずや神明の罰が当たる。正直によりたとえ一旦は依怙贔屓を受けられなくとも、最後には日月の憐れみをこうむる。

春日大明神 たとえ千日しめ縄を曳いてあっても、邪見(邪な価値観)の家には到らず、たとえ父母の喪(重い忌服)を篤く為していたとしても、慈悲深い室(部屋あるいは側室)へ赴くべし。

こういふ素朴な道徳観が受け継がれている家であれば、道徳の退廃もなく、変な宗教にも丸め込まれずに済むのだらう。「身一貫目百貫」もお気に入り。

ちなみに試験勉強はちゃんとやっています。息抜きにたまに更新します。



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試験勉強
 日商簿記1級の試験が6月14日にあり、ずっと試験勉強をしていました。自己採点で40点弱。完全に勉強時間が足りない。仕事をしながらなので、平日は昼休みに30分、夜に1時間がいいところで、それ以上やろうとしても、頭が回らなくつまらないミスばかりして能率が悪い。朝はたまに起きれたときに30分。休日は一日中できるはずだが、平日に全く息抜きができていないので、息抜きに音楽、ゲームなどをやると、結局3〜5時間程度しかできない。
 試験までに問題集を一回通して解くのも最後のほうは飛ばし飛ばしで、過去問は全く手付かず。幸いTACの直前予想を2回ずつ解いたおかげで、上記の点くらいになった。TACの予想はまあまあ当たっていた。次の試験は11月。今も暇を見ては問題を解くようにしている。

 堀家の歴史は図書館に行く時間があれば『寛永諸家系図伝』『堀鉄団公記』など紹介したいが、しばらくは無理そう。堀家の歴史といっても過去の話ばかりでなく、現在の堀家の活躍を知る場にするのもよいかもしれない。私だけではなく、ここに来る堀さんたちから自分や親戚がどこでどうしているかコメントをいただければ、それが新しい堀家の歴史をつくることになるのではないかと思います。



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『寛政重修諸家譜』堀秀政
史料掲載シリーズ。今回は『寛政重修諸家譜』の堀秀政の項。

「秀政 菊千代 久太郎 左衛門督 従五位下 侍従 従四位下 母は加賀守某が女、
天文二十二年美濃国茜部に生る、いとけなうして伯父掃部大夫某がもとに住し、のちまた織田右府(信長)の臣大津伝十郎某がもとにありといへども、身を立べからざるをしるがゆへに、去て豊臣太閤に従ふ、永禄八年織田右府太閤のもとにいたり秀政をみて家臣となすべしといふ、これより右府につかふ、(時に十三歳)のち近江国坂田郡のうちにをいて二万五千石を領す、天正元年越前国にをいて一向専修の門徒蜂起す、秀政これをしづめんがために彼地に行く、まづ京師によぎり、本願寺の書を請て越前国にいたり、その書をもつて一揆等にしめす、逆徒すみやかに服従す、五年二月紀伊国雑賀の徒一揆を企るのとき、また彼地にいたり、七年八月織田信忠にしたがひて荒木摂津守村重を討、九年九月八日近江国長浜の城主となり、十年三月右府にしたがひ甲斐国に赴く、この年備中国高松の城攻に、検使にさゝれて彼地にあり、ときに京師にをいて右府父子の事あるをきゝ、豊臣太閤にこふて山崎の先鋒となり、天王山に登り、明智光秀と戦ひ勝利を得たり、また大津打出浜の合戦に、明智左馬助某と戦ひをまじへてこれを破る、これより太閤に属し、羽柴の称号をたまふ、十一年二月太閤にしたがひ近江国佐禰山の砦を守り、柴田勝家佐久間盛政と兵をまじへ、秀政が手に勝家の金の幣の馬幟および首二級を得たり、のち太閤越前国に進発のとき扈従し、この年近江国佐和山城をたまひ九万石を領す、十二年四月、長久手の合戦に首二百八十余級を討取、楽田に兵を収む、十三年三月太閤紀伊国根来寺を討んとして彼地に旗をむけらる、秀政筒井順慶長谷川秀一とゝもに千石堀を攻、先がけして終にこれをやぶる、六月、豊臣秀次及び羽柴秀長にしたがひ四国に赴く、七月従四位下侍従に叙任し左衛門督と称す、閏八月十三日封を越前国にうつされ、北庄の城主となり、十八万八百石余を領し、六万六千石を村上周防守義明、四万四千石を溝口伯耆守秀勝にあたへられ、秀政が与力とせらる、十五年の春太閤島津義久を征伐あるに供奉し、十八年四月朔日小田原の陣営にをいて太閤備定の令を下し、一番、村上周防守義明、柴田源左衛門勝全、二番、溝口伯耆守秀勝、堀監物直政、神子田八右衛門某、この二備、隔日交代で一番に備ふべし、三番、丹羽五郎左衛門長重をして右備の大将とし、秀政を左備の大将とし、四番、木村常陸介重高、五番、長谷川藤五郎秀一、六番、岐阜侍従秀信とし、各機に臨みて鉄砲の士卒を出すべしと触らる、すでにして箱根山に攻のぼり、日夜いどみたゝかふ、この年五月二十七日早川口の陣中にをいて卒す、年三十八、高嶽道哲東樹院と号す、北庄の長慶寺に葬り、のち越後国春日山の林泉寺に改葬す、室は喜多嶋和泉守某が女、」

堀秀政に関しては、『堀家の歴史』、『織田信長家臣人名事典』などもあるが、全文のせるのは著作権の問題もあるだらうし、文量がとてつもない。九割がたはこれまでのブログで紹介できている。『織田信長家臣人名事典』は県立図書館や市立の中央図書館ならどこでも置いていると思うので興味のある方は参照されたし。以下に一部引用する。

「これらの事実は、秀政の力が柴田・羽柴ら歴戦の部将を立場上凌駕しているかのような感をさえいだかせる。もちろん当時の秀政は、戦場においては信長馬廻にすぎず、戦闘能力において部将たちに比べるべくもないが、信長の信頼厚い側近として、柴田ら有力な部将たちさえ一目置く存在だったようである。これは単に秀政が信長の寵愛を受けていたというばかりでなく、『老人雑話』に「堀左衛門傑出の人也」と書かれている通り、その資質によるものであろう。秀政まだ二十五、六の若さである。」



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『寛政重修諸家譜』堀利季〜秀重
史料掲載シリーズ。今回は『寛政重修諸家譜』の堀利季から秀重の兄弟まで。『寛永諸家系図伝』は未入手のため後日。

「寛政重修諸家譜巻第七百六十四
藤原氏 利仁流
 堀
掃部大夫某は鎮守府将軍利仁八代の孫堀権大夫季高が後胤なり、
其子孫越後守忠俊がときにいたりて松平の称号をたまひ、のち罪かうぶりて家たゆ、」
 
堀利季(としすえ)
「某 掃部大夫
斎藤道三につかへ、美濃国厚見郡のうち茜部上下の両村を知行し、のち数度の軍功により、采地近辺のものを与力とし、かつ朱具足一領をあたへらる、」

堀利房
「某 六介 掃部大夫
父とともに道三につかへ、軍功あるにより長光の刀をあたへらる、」 

利房の子達
「某 掃部大夫 母は某氏、
脚疾ありて歩行かなはざるにより、茜部村に蟄居し、一向門徒の僧となる、しかれども剃髪せざるにより、邑人これを毛坊と称す、」(秀政の伯父毛坊主)

「女子 母は某氏、奥田七郎五郎某が妻、」(直政の母)

「秀重 掃部大夫 太郎左衛門 母は某氏、
天文元年生る、はじめ道三につかへ、のち織田右府(信長)に属し、近江国坂田郡にをいて三千石の采地をあたへられ、旧領に合せて五千石を知行し、のち豊臣太閤につかへ、加恩ありて一万石を領し、のち左文字の脇指を賜ふ、秀重太閤に属すといへども、よりより東照宮に拝謁し、しばしば厚恩をかうぶる、慶長五年関東御凱旋のゝちまみえたてまつり、かの脇差を献す、ときに貞宗の御脇指をたまはり、そのゝち嫡孫左衛門督秀治が封内にをいて一万四百石の地をたまはる、十一年十一月二十八日卒す、年七十五、松林道伯東浄寺と号す、越後国春日山の林泉寺に葬る、室は三田村加賀守某が女、」

「某 治右衛門 母は某氏、」

秀重の弟に治右衛門といふ人がいる。

註:邑=村



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新潟へ帰郷
 四月からまた新潟に戻ることに。堀直政没後四百年の節目の年に岐阜茜部に訪れることができ、二〇〇八年は一生忘れられない一年となった。一年で三回訪れることができ、茜部も岐阜市街も大好きな町になった。直政も死の間際には茜部に帰りたいと思っていて、それで我が導かれたのか、などと想像してみる。私的には名古屋に来たことがきっかけで、志を立てるに至ったので、ご先祖が我を励ますために呼んだのだと思っている。

「天文十一年、斎藤秀龍入道々三其主土岐頼芸を逐ふて美濃一国を簒奪しければ、秀種慨然として機に乗じ遠祖の業を興さんと欲し茜部の「さし屋敷」と云ふ所にさゝやかながら砦を構へて、薮田、鵜面等の地五百貫を領し、旧族古家を始め少しも豪俊の聞えある者には好みを結びて、貧を恵み飢を救ふを以て務とせられし程に近藤、河村、不破、小畠、伴、大野、谷、片岡、小川、速水、梅戸、川手、岡田、小泉、奥山、雑賀杯云へる人々心服してなづき親しむ、奥田家の発祥蓋しこゝに基きけるとぞ。」『堀鉄団公記』

 このくだりをとても気に入っていて、我も奥田秀種のように家を興し、仲間を助けられるようになりたいとおもふやうになった。税理士を目指すことにした。



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悪七郎五郎
これから、各資料を図書館に行かずとも手軽に参照できるよう人物別に掲載していこうとおもふ。今回は奥田直純。

 「某 七郎五郎、 斉藤道三息男義辰と父子不知(不和?)なるによりて濃州鷺山にをひて兵を卒し、すてに勝負をけつせんとす。このとき大ぢからの道家(だうけ)孫次郎緋縅(ひおどし)の鎧を着、たゝ一騎のゝしりいつ、味方の士面をあはする者なし、ときに七郎五郎すゝみかけいて、道家とあひくみ、雄をあらそふ、七郎五郎も又緋縅の鎧を着ければ、赤色あひましわりてわかちかたし、しかれともつゐに道家が首を得たり、これによりて世人悪七郎五郎とよぶ、」『寛永諸家系図伝』

 「某 七郎五郎 直方が呈譜に、直純(なおずみ)或利直(としなお)に作る、
美濃国茜部のさゝ屋敷に小城をかまへ、五百貫文の地を領す、斉藤道三其男左京大夫義龍と矛盾の、美濃国鷺山にをいて戦ひをいどむ、ときに勇力のきこえありし道家孫次郎某と組て終に其首を得たり、世人これより悪七郎五郎と称す、元亀二年九月二十二日死す、年四十八、法名道存、妻は堀掃部大夫某が女、」『寛政重修諸家譜』

 「秀種が子を七郎五郎直純(初め利直)と云ふ、状貌魁偉にして身の丈七尺に余り、膂力人にすぐれ、音声朗らかに遠く聞えたりき、弘治二年四月、斉藤道三、長子義龍を疎みて次子龍元を立てんとせしかば、義龍怒りて道三出猟せるに乗じ、龍元及び其の弟龍之を誘殺して道三を逐ひければ、道三奔つて鷺山の城に楯籠る。時に直純、義龍に加勢して城近く攻寄せけるが、敵陣中に道家孫次郎とて剛力の士あり、朱塗の物具に身を堅め、穂長の槍を横たへて進出で、我と能く刃を交へ力を争はん者あらば来りて雌雄を決せよと喚はりしが時人渠を大力道家と稱(称)して日頃怖れ居たりし程に我こそと云ふ者なかりしかば、道家益々侮りて頻りに叫び罵りけるを、直純聞くに耐かねて、吾必ず渠を取ひしがんと誓言して後陣より進み出でしに、道家うしろに山を負ひ、右に谷を控へて地の利を占め居たり、直純哂笑ふて、臆病武者の遠吠とは汝が事よ、汝こそ進み来たれ、我は此処より一歩も退かじ、寄手はハヤ汝が背後に攀じ登り居るを知らずやと云へば、道家欺かるゝとも知らず、ふりかへりためらうを、直純得たりと走り寄り、槍を捻つて左の頬より口中へ突刺しけるに、道家?を噛みて放たざれば、槍を棄てムヅと引組み、輾転相搏つて闘ひける、時に直純も朱の物具をしたる事とて何れを味方とも分けかねしが、直純の力優りければ終に道家の首を掻切つて、高やかに差揚げ、これ見よと呼ばはりければ、味方が歓呼の声山谷にひゞきて大軍の押寄せし如くなりける程に、敵は浮足立つて散々に打負け、道三あへなく討たれたりければ、義龍大に喜びて五百貫の地を加へて賞せられける、世の人直純を悪七郎五郎を稱ぜしは此の時よりの事なりけり。
この直純が用ゐられし物とて古くより住吉神社に唐冠の兜を蔵めらる。或記によれば、遠祖足利修理大夫高経より伝来の物なれば、我嫡流代々之を伝へて庶流に渡すべからずと直純申遣されたりと云ふ。其の作いかにもいがめしければ、被りし人のいかに魁梧なりしかを想察するに足りぬ。
 直純、織田家に仕へて近江国坂田郡を領したる堀太郎左衛門尉秀重の姉に添ふてニ子を設け、元亀二年九月二十三日、四十八歳にて卒せらる。」『堀鉄団公記』

「秀種の子七郎五郎直純は、身の丈七尺にして膂力は衆にすぐれ、始め斉藤義竜の味方となった。義竜は一代の梟雄といわれた斉藤道三の養子で、かつて道三が西村勘九郎と名乗っていたとき、主君の土岐頼芸の妻三好野と呼応して頼芸を追放、美濃一国を手中に治めたとき、三好野はすでに頼芸の子を身籠っていたため、道三はこれを養って嫡子とした。こうした事情から、義竜は父子相克を演じ、長良川の畔において養父道三を殺した。
奥田直純はこの戦いに無双の怪力をうたわれた道家孫次郎と戦い、その首級を上げ、世人はたれしもその勇武を賞したという。(のちに悪七郎五郎との異名で呼ばれるほどであった。)ときに弘治二年四月の頃である。
 のちさらに織田信長に従い、その勇猛を謳われたが、惜くも元亀二年(一五七一)九月二十三日美濃において病没した。行年四十八。」『堀家の歴史』

悪〜、鬼〜といふ呼び名は、武勇に優れた者を賞賛するときにつけられたらしい。『堀鉄団公記』の語り方、描写は見事とおもふ。ふたりがあらそふ場面、直純の勝利で味方の士気が上がり、義龍側が勝利するといふ流れ、有名ではないが歴史に重要な役割を果たしている感じがかっこよい。



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美濃国堀之内
 先日、岐阜市西改田へ行ってきた。ここに堀之内といふバス停がある。藤原氏利仁流堀氏は、利仁将軍八代孫の藤原季高(すえたか)が美濃国堀之内に土着し、堀氏を称したのが始まりといふ。付近の地形は北に山があり、南へ向かって平らに開けていて、東改田の方には山と水田の美しい景色があった。この景色を九百年前くらいのご先祖も気に入ったのだろうなと感慨にふける。

堀之内バス停

こちらは、堀之内バス停のすぐ側にあった神社。お参りしておいた。
堀之内の神社



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吾が家系(?)
 吾が家系と推測しているのは、堀直清の六男主馬之助直正の血筋で、直正―直行―直満―政親―政恒ときて、政恒の三男六三郎が溝口四郎左衛門長恒の養子に入り、久長と名乗れり。久長の子は善長といい、善長の二男市輔が堀五郎右衛門家に養子に入った。ちなみに善長の弟享次郎は堀主計家に養子に入り、永頼と名乗れり。途中から直の字を使わなくなったのは、藩主が直の字を使うようになったため、同じ名を憚ってのこと。堀主計家は頼の字、堀五郎右衛門家は政の字、堀丈大夫家(および其の分家)は政、徳の字を用いるようになる。
 この市輔といふ名が本家の屋号と同じ(ただし輔の字が違う市助)ことと、我が家の戸籍の高祖母(ひいひいおばあさん)の欄に、「亡祖父市助二女」とあり、婿をもらい家が起こったといふ口伝と合致する(亡祖父とは曽祖父が戸主なので曽祖父から見て)。この高祖母が生まれたのが天保三年(一八三三年)とあり、新発田の市輔は史料からそのとき二十四歳であるので、年代的には無理がない。それから本当の本家は北海道へ行ったといふ証言がある。明治の『賜禄帳』で堀氏を参照すると、禄高と名から堀政太郎といふ人物が堀五郎右衛門家であると推測され、その政太郎は『奉還禄高及目途職業一覧』には「開拓」とあり、証言と合う。
 しかし、合わないところもある。新発田の市輔は後に要人(かなめ)政懋(懋は人名としての読みは、ちか、みち、なか、つよ、などがあるといふ)と名を改めている。そして安政三年の『武鑑』では堀五郎右衛門と再び改めている。濁川に移住したときに若い頃の名を使ったのか、あるいは別人なのか。新発田と濁川に同世代で同姓同名がいる確率はあまり高くないとおもふが。もうひとつ、本当の本家の墓といふのがあり、そこには明治四十一年とある。藩士を辞めてほどなくして北海道に行ったのなら、なぜ明治四十一年に濁川に墓を建てたのかといふ謎が残る。
 本家の戸籍も見せてもらった。我が家の高祖母の兄弟は堀市次郎といふ名だった。政太郎と市次郎が兄弟だとすると、市輔は長男に家の代々の政の字、二男に自分の市の字を付けたのだらう。市次郎は新発田藩の史料には出て来ない。仕官はしなかったやう也。兄弟であればだが。それと、明治以降も何人か政の字がつく人がいる。明治以降は名は一つと決められたため、あざな系の〜太郎、〜吉などの名前と、いみな系の政親、直正などの名前に分かれるため全員ではない。また、親戚関係ではないが、近所に徳の字のつく堀氏もいるやう。新発田の堀氏はやはりこの近辺に移住してきているのではないかとおもふ。名前に使う漢字はただの偶然といふこともあるが。



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