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堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、在住30才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

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たしなむべし。
歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。
試験勉強
 日商簿記1級の試験が6月14日にあり、ずっと試験勉強をしていました。自己採点で40点弱。完全に勉強時間が足りない。仕事をしながらなので、平日は昼休みに30分、夜に1時間がいいところで、それ以上やろうとしても、頭が回らなくつまらないミスばかりして能率が悪い。朝はたまに起きれたときに30分。休日は一日中できるはずだが、平日に全く息抜きができていないので、息抜きに音楽、ゲームなどをやると、結局3〜5時間程度しかできない。
 試験までに問題集を一回通して解くのも最後のほうは飛ばし飛ばしで、過去問は全く手付かず。幸いTACの直前予想を2回ずつ解いたおかげで、上記の点くらいになった。TACの予想はまあまあ当たっていた。次の試験は11月。今も暇を見ては問題を解くようにしている。

 堀家の歴史は図書館に行く時間があれば『寛永諸家系図伝』『堀鉄団公記』など紹介したいが、しばらくは無理そう。堀家の歴史といっても過去の話ばかりでなく、現在の堀家の活躍を知る場にするのもよいかもしれない。私だけではなく、ここに来る堀さんたちから自分や親戚がどこでどうしているかコメントをいただければ、それが新しい堀家の歴史をつくることになるのではないかと思います。



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『寛政重修諸家譜』堀秀政
史料掲載シリーズ。今回は『寛政重修諸家譜』の堀秀政の項。

「秀政 菊千代 久太郎 左衛門督 従五位下 侍従 従四位下 母は加賀守某が女、
天文二十二年美濃国茜部に生る、いとけなうして伯父掃部大夫某がもとに住し、のちまた織田右府(信長)の臣大津伝十郎某がもとにありといへども、身を立べからざるをしるがゆへに、去て豊臣太閤に従ふ、永禄八年織田右府太閤のもとにいたり秀政をみて家臣となすべしといふ、これより右府につかふ、(時に十三歳)のち近江国坂田郡のうちにをいて二万五千石を領す、天正元年越前国にをいて一向専修の門徒蜂起す、秀政これをしづめんがために彼地に行く、まづ京師によぎり、本願寺の書を請て越前国にいたり、その書をもつて一揆等にしめす、逆徒すみやかに服従す、五年二月紀伊国雑賀の徒一揆を企るのとき、また彼地にいたり、七年八月織田信忠にしたがひて荒木摂津守村重を討、九年九月八日近江国長浜の城主となり、十年三月右府にしたがひ甲斐国に赴く、この年備中国高松の城攻に、検使にさゝれて彼地にあり、ときに京師にをいて右府父子の事あるをきゝ、豊臣太閤にこふて山崎の先鋒となり、天王山に登り、明智光秀と戦ひ勝利を得たり、また大津打出浜の合戦に、明智左馬助某と戦ひをまじへてこれを破る、これより太閤に属し、羽柴の称号をたまふ、十一年二月太閤にしたがひ近江国佐禰山の砦を守り、柴田勝家佐久間盛政と兵をまじへ、秀政が手に勝家の金の幣の馬幟および首二級を得たり、のち太閤越前国に進発のとき扈従し、この年近江国佐和山城をたまひ九万石を領す、十二年四月、長久手の合戦に首二百八十余級を討取、楽田に兵を収む、十三年三月太閤紀伊国根来寺を討んとして彼地に旗をむけらる、秀政筒井順慶長谷川秀一とゝもに千石堀を攻、先がけして終にこれをやぶる、六月、豊臣秀次及び羽柴秀長にしたがひ四国に赴く、七月従四位下侍従に叙任し左衛門督と称す、閏八月十三日封を越前国にうつされ、北庄の城主となり、十八万八百石余を領し、六万六千石を村上周防守義明、四万四千石を溝口伯耆守秀勝にあたへられ、秀政が与力とせらる、十五年の春太閤島津義久を征伐あるに供奉し、十八年四月朔日小田原の陣営にをいて太閤備定の令を下し、一番、村上周防守義明、柴田源左衛門勝全、二番、溝口伯耆守秀勝、堀監物直政、神子田八右衛門某、この二備、隔日交代で一番に備ふべし、三番、丹羽五郎左衛門長重をして右備の大将とし、秀政を左備の大将とし、四番、木村常陸介重高、五番、長谷川藤五郎秀一、六番、岐阜侍従秀信とし、各機に臨みて鉄砲の士卒を出すべしと触らる、すでにして箱根山に攻のぼり、日夜いどみたゝかふ、この年五月二十七日早川口の陣中にをいて卒す、年三十八、高嶽道哲東樹院と号す、北庄の長慶寺に葬り、のち越後国春日山の林泉寺に改葬す、室は喜多嶋和泉守某が女、」

堀秀政に関しては、『堀家の歴史』、『織田信長家臣人名事典』などもあるが、全文のせるのは著作権の問題もあるだらうし、文量がとてつもない。九割がたはこれまでのブログで紹介できている。『織田信長家臣人名事典』は県立図書館や市立の中央図書館ならどこでも置いていると思うので興味のある方は参照されたし。以下に一部引用する。

「これらの事実は、秀政の力が柴田・羽柴ら歴戦の部将を立場上凌駕しているかのような感をさえいだかせる。もちろん当時の秀政は、戦場においては信長馬廻にすぎず、戦闘能力において部将たちに比べるべくもないが、信長の信頼厚い側近として、柴田ら有力な部将たちさえ一目置く存在だったようである。これは単に秀政が信長の寵愛を受けていたというばかりでなく、『老人雑話』に「堀左衛門傑出の人也」と書かれている通り、その資質によるものであろう。秀政まだ二十五、六の若さである。」



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『寛政重修諸家譜』堀利季〜秀重
史料掲載シリーズ。今回は『寛政重修諸家譜』の堀利季から秀重の兄弟まで。『寛永諸家系図伝』は未入手のため後日。

「寛政重修諸家譜巻第七百六十四
藤原氏 利仁流
 堀
掃部大夫某は鎮守府将軍利仁八代の孫堀権大夫季高が後胤なり、
其子孫越後守忠俊がときにいたりて松平の称号をたまひ、のち罪かうぶりて家たゆ、」
 
堀利季(としすえ)
「某 掃部大夫
斎藤道三につかへ、美濃国厚見郡のうち茜部上下の両村を知行し、のち数度の軍功により、采地近辺のものを与力とし、かつ朱具足一領をあたへらる、」

堀利房
「某 六介 掃部大夫
父とともに道三につかへ、軍功あるにより長光の刀をあたへらる、」 

利房の子達
「某 掃部大夫 母は某氏、
脚疾ありて歩行かなはざるにより、茜部村に蟄居し、一向門徒の僧となる、しかれども剃髪せざるにより、邑人これを毛坊と称す、」(秀政の伯父毛坊主)

「女子 母は某氏、奥田七郎五郎某が妻、」(直政の母)

「秀重 掃部大夫 太郎左衛門 母は某氏、
天文元年生る、はじめ道三につかへ、のち織田右府(信長)に属し、近江国坂田郡にをいて三千石の采地をあたへられ、旧領に合せて五千石を知行し、のち豊臣太閤につかへ、加恩ありて一万石を領し、のち左文字の脇指を賜ふ、秀重太閤に属すといへども、よりより東照宮に拝謁し、しばしば厚恩をかうぶる、慶長五年関東御凱旋のゝちまみえたてまつり、かの脇差を献す、ときに貞宗の御脇指をたまはり、そのゝち嫡孫左衛門督秀治が封内にをいて一万四百石の地をたまはる、十一年十一月二十八日卒す、年七十五、松林道伯東浄寺と号す、越後国春日山の林泉寺に葬る、室は三田村加賀守某が女、」

「某 治右衛門 母は某氏、」

秀重の弟に治右衛門といふ人がいる。

註:邑=村



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新潟へ帰郷
 四月からまた新潟に戻ることに。堀直政没後四百年の節目の年に岐阜茜部に訪れることができ、二〇〇八年は一生忘れられない一年となった。一年で三回訪れることができ、茜部も岐阜市街も大好きな町になった。直政も死の間際には茜部に帰りたいと思っていて、それで我が導かれたのか、などと想像してみる。私的には名古屋に来たことがきっかけで、志を立てるに至ったので、ご先祖が我を励ますために呼んだのだと思っている。

「天文十一年、斎藤秀龍入道々三其主土岐頼芸を逐ふて美濃一国を簒奪しければ、秀種慨然として機に乗じ遠祖の業を興さんと欲し茜部の「さし屋敷」と云ふ所にさゝやかながら砦を構へて、薮田、鵜面等の地五百貫を領し、旧族古家を始め少しも豪俊の聞えある者には好みを結びて、貧を恵み飢を救ふを以て務とせられし程に近藤、河村、不破、小畠、伴、大野、谷、片岡、小川、速水、梅戸、川手、岡田、小泉、奥山、雑賀杯云へる人々心服してなづき親しむ、奥田家の発祥蓋しこゝに基きけるとぞ。」『堀鉄団公記』

 このくだりをとても気に入っていて、我も奥田秀種のように家を興し、仲間を助けられるようになりたいとおもふやうになった。税理士を目指すことにした。



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悪七郎五郎
これから、各資料を図書館に行かずとも手軽に参照できるよう人物別に掲載していこうとおもふ。今回は奥田直純。

 「某 七郎五郎、 斉藤道三息男義辰と父子不知(不和?)なるによりて濃州鷺山にをひて兵を卒し、すてに勝負をけつせんとす。このとき大ぢからの道家(だうけ)孫次郎緋縅(ひおどし)の鎧を着、たゝ一騎のゝしりいつ、味方の士面をあはする者なし、ときに七郎五郎すゝみかけいて、道家とあひくみ、雄をあらそふ、七郎五郎も又緋縅の鎧を着ければ、赤色あひましわりてわかちかたし、しかれともつゐに道家が首を得たり、これによりて世人悪七郎五郎とよぶ、」『寛永諸家系図伝』

 「某 七郎五郎 直方が呈譜に、直純(なおずみ)或利直(としなお)に作る、
美濃国茜部のさゝ屋敷に小城をかまへ、五百貫文の地を領す、斉藤道三其男左京大夫義龍と矛盾の、美濃国鷺山にをいて戦ひをいどむ、ときに勇力のきこえありし道家孫次郎某と組て終に其首を得たり、世人これより悪七郎五郎と称す、元亀二年九月二十二日死す、年四十八、法名道存、妻は堀掃部大夫某が女、」『寛政重修諸家譜』

 「秀種が子を七郎五郎直純(初め利直)と云ふ、状貌魁偉にして身の丈七尺に余り、膂力人にすぐれ、音声朗らかに遠く聞えたりき、弘治二年四月、斉藤道三、長子義龍を疎みて次子龍元を立てんとせしかば、義龍怒りて道三出猟せるに乗じ、龍元及び其の弟龍之を誘殺して道三を逐ひければ、道三奔つて鷺山の城に楯籠る。時に直純、義龍に加勢して城近く攻寄せけるが、敵陣中に道家孫次郎とて剛力の士あり、朱塗の物具に身を堅め、穂長の槍を横たへて進出で、我と能く刃を交へ力を争はん者あらば来りて雌雄を決せよと喚はりしが時人渠を大力道家と稱(称)して日頃怖れ居たりし程に我こそと云ふ者なかりしかば、道家益々侮りて頻りに叫び罵りけるを、直純聞くに耐かねて、吾必ず渠を取ひしがんと誓言して後陣より進み出でしに、道家うしろに山を負ひ、右に谷を控へて地の利を占め居たり、直純哂笑ふて、臆病武者の遠吠とは汝が事よ、汝こそ進み来たれ、我は此処より一歩も退かじ、寄手はハヤ汝が背後に攀じ登り居るを知らずやと云へば、道家欺かるゝとも知らず、ふりかへりためらうを、直純得たりと走り寄り、槍を捻つて左の頬より口中へ突刺しけるに、道家?を噛みて放たざれば、槍を棄てムヅと引組み、輾転相搏つて闘ひける、時に直純も朱の物具をしたる事とて何れを味方とも分けかねしが、直純の力優りければ終に道家の首を掻切つて、高やかに差揚げ、これ見よと呼ばはりければ、味方が歓呼の声山谷にひゞきて大軍の押寄せし如くなりける程に、敵は浮足立つて散々に打負け、道三あへなく討たれたりければ、義龍大に喜びて五百貫の地を加へて賞せられける、世の人直純を悪七郎五郎を稱ぜしは此の時よりの事なりけり。
この直純が用ゐられし物とて古くより住吉神社に唐冠の兜を蔵めらる。或記によれば、遠祖足利修理大夫高経より伝来の物なれば、我嫡流代々之を伝へて庶流に渡すべからずと直純申遣されたりと云ふ。其の作いかにもいがめしければ、被りし人のいかに魁梧なりしかを想察するに足りぬ。
 直純、織田家に仕へて近江国坂田郡を領したる堀太郎左衛門尉秀重の姉に添ふてニ子を設け、元亀二年九月二十三日、四十八歳にて卒せらる。」『堀鉄団公記』

「秀種の子七郎五郎直純は、身の丈七尺にして膂力は衆にすぐれ、始め斉藤義竜の味方となった。義竜は一代の梟雄といわれた斉藤道三の養子で、かつて道三が西村勘九郎と名乗っていたとき、主君の土岐頼芸の妻三好野と呼応して頼芸を追放、美濃一国を手中に治めたとき、三好野はすでに頼芸の子を身籠っていたため、道三はこれを養って嫡子とした。こうした事情から、義竜は父子相克を演じ、長良川の畔において養父道三を殺した。
奥田直純はこの戦いに無双の怪力をうたわれた道家孫次郎と戦い、その首級を上げ、世人はたれしもその勇武を賞したという。(のちに悪七郎五郎との異名で呼ばれるほどであった。)ときに弘治二年四月の頃である。
 のちさらに織田信長に従い、その勇猛を謳われたが、惜くも元亀二年(一五七一)九月二十三日美濃において病没した。行年四十八。」『堀家の歴史』

悪〜、鬼〜といふ呼び名は、武勇に優れた者を賞賛するときにつけられたらしい。『堀鉄団公記』の語り方、描写は見事とおもふ。ふたりがあらそふ場面、直純の勝利で味方の士気が上がり、義龍側が勝利するといふ流れ、有名ではないが歴史に重要な役割を果たしている感じがかっこよい。



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美濃国堀之内
 先日、岐阜市西改田へ行ってきた。ここに堀之内といふバス停がある。藤原氏利仁流堀氏は、利仁将軍八代孫の藤原季高(すえたか)が美濃国堀之内に土着し、堀氏を称したのが始まりといふ。付近の地形は北に山があり、南へ向かって平らに開けていて、東改田の方には山と水田の美しい景色があった。この景色を九百年前くらいのご先祖も気に入ったのだろうなと感慨にふける。

堀之内バス停

こちらは、堀之内バス停のすぐ側にあった神社。お参りしておいた。
堀之内の神社



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吾が家系(?)
 吾が家系と推測しているのは、堀直清の六男主馬之助直正の血筋で、直正―直行―直満―政親―政恒ときて、政恒の三男六三郎が溝口四郎左衛門長恒の養子に入り、久長と名乗れり。久長の子は善長といい、善長の二男市輔が堀五郎右衛門家に養子に入った。ちなみに善長の弟享次郎は堀主計家に養子に入り、永頼と名乗れり。途中から直の字を使わなくなったのは、藩主が直の字を使うようになったため、同じ名を憚ってのこと。堀主計家は頼の字、堀五郎右衛門家は政の字、堀丈大夫家(および其の分家)は政、徳の字を用いるようになる。
 この市輔といふ名が本家の屋号と同じ(ただし輔の字が違う市助)ことと、我が家の戸籍の高祖母(ひいひいおばあさん)の欄に、「亡祖父市助二女」とあり、婿をもらい家が起こったといふ口伝と合致する(亡祖父とは曽祖父が戸主なので曽祖父から見て)。この高祖母が生まれたのが天保三年(一八三三年)とあり、新発田の市輔は史料からそのとき二十四歳であるので、年代的には無理がない。それから本当の本家は北海道へ行ったといふ証言がある。明治の『賜禄帳』で堀氏を参照すると、禄高と名から堀政太郎といふ人物が堀五郎右衛門家であると推測され、その政太郎は『奉還禄高及目途職業一覧』には「開拓」とあり、証言と合う。
 しかし、合わないところもある。新発田の市輔は後に要人(かなめ)政懋(懋は人名としての読みは、ちか、みち、なか、つよ、などがあるといふ)と名を改めている。そして安政三年の『武鑑』では堀五郎右衛門と再び改めている。濁川に移住したときに若い頃の名を使ったのか、あるいは別人なのか。新発田と濁川に同世代で同姓同名がいる確率はあまり高くないとおもふが。もうひとつ、本当の本家の墓といふのがあり、そこには明治四十一年とある。藩士を辞めてほどなくして北海道に行ったのなら、なぜ明治四十一年に濁川に墓を建てたのかといふ謎が残る。
 本家の戸籍も見せてもらった。我が家の高祖母の兄弟は堀市次郎といふ名だった。政太郎と市次郎が兄弟だとすると、市輔は長男に家の代々の政の字、二男に自分の市の字を付けたのだらう。市次郎は新発田藩の史料には出て来ない。仕官はしなかったやう也。兄弟であればだが。それと、明治以降も何人か政の字がつく人がいる。明治以降は名は一つと決められたため、あざな系の〜太郎、〜吉などの名前と、いみな系の政親、直正などの名前に分かれるため全員ではない。また、親戚関係ではないが、近所に徳の字のつく堀氏もいるやう。新発田の堀氏はやはりこの近辺に移住してきているのではないかとおもふ。名前に使う漢字はただの偶然といふこともあるが。



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堀主計家にまつわる話
『新発田藩世臣譜』より引用する。句読点、一部読み仮名は我の編集。原文「玉ふ」を、を「給ふ、賜ふ」に直している。括弧内は註のような形で小さく書かれている部分。

 「主計直浄は幼名杢之助又忠三郎ともいへり。主馬助直正の兄なれば直正の先祖と同じきなり。父監物直清配流と成り卒せし後、堀丹後守直寄に仕へ三千石を領し士(さむらい)大将たりしが、直寄の嫡孫直定寛永十九年三月二日七歳にて卒せられ断絶せし時、浪人せしを正保二年長寿院殿の御甥なれば宣直公御招きありて当家へ来り本藩の臣となる。
 一説に村上より御府内五十公野(いじみの)安楽寺へ来りしを召出され、「御宛行もなく藩中に居せし」といへり、また或記に直浄他所奉公を心掛て五十公野(いじみの)安楽寺に止宿せしを宣直公を聞し召し、山庄小左衛門盛浄御使として「先知ほどは遣しかたし千石にても苦しからずは弟主馬も此地に居る事なれば他邦にまゐらずとも、とどまり奉公いたすべし」と仰せ遣れしとなり。
 千二百石を給へ組頭にて与力二人(中山杢兵衛、犬井新五右衛門是なり)を付給ふ。正保三年下館御在番御供せり。明暦の頃御仕置役と成り、寛文二年増上寺御普請御手伝の時大奉行を勤めり。延宝四年六月廿一日願に依て御免しあり(制札名前及他所への書翰は御仕置役の通りなり、妻は直寄が臣大窪志摩が女なり、東照宮より監物直清に給ひし御感書此家に蔵せり。)同六年七月十五日病死せり。」

 「堀蔵人直隆は直浄が二男たり。宣直公御代より召出され(年号聞かず)近習の士たりしが、御隠居遊ばして御部屋附の御用役を勤め三百石を賜りぬ。天和二年(延宝六年と政事記にあり)武頭に至りしが(輪違組御預け)故ありて御暇を賜り在宅せり。元禄元年再勤して旧知の如く武頭を勤り(千切組御預け)。病身のよし願ひしかば、同五年五月廿三日武頭を御免ありしが、直方候直好が養子と成り給ひし後、重雄公直好が元へ御入ありし時(元禄八年九月廿五日なり)直隆へ二百石御加増ありて(元禄六年九月五日、病の御礼申上し時御旗組御預の命あり)宝永二年四月又百石御加増旗奉行に命あり、六百石まで給りぬ。同四年二月廿日六十三歳にて病死せり(直隆一族亀甲のうちに花菱を定紋とす。替紋は一つ釘抜を定紋とせしに、ある時村松より亀甲を定紋に致し度(たき)由云ひ来りしに、直隆ゆるさぬと云伝ふ。訳ある事ならん、いまだ聞かず)。」

 主計直浄は直清の二男。此の家に家康からの御感書があるといふ。長男の家系は断絶したのだろうか。『寛政家譜』には酒井讃岐守に仕えたとあるが。直清は直浄に期待していたのだろうか。その直浄が直寄に仕えたのだから、直寄に悪い感情は持っていなかったのか?しかし直浄の二男直隆は、村松から「亀甲に花菱」の家紋を使いたいと申し出があった際断っている。村松にわだかまりがあったのか、それとも単にしきたりに関して保守的だったのか。この直隆の家系は、のちに堀五郎右衛門という名を代々継ぐようになる。
 
 堀主計家も堀五郎右衛門家も跡継ぎなく、他家から養子が入るが、それも絶え、両家とも同族の堀丈大夫家(直清の六男主馬助直正の家系)の血筋から養子が入り、明治に至る。迷信深いところのある我は、直浄が直寄に仕えたことをあの世で直清が嫌って家系が絶えたのかなどともおもふが、御感書を継いでいるからそれはないか、ともおもふ。家が続くといふのは容易な道のりではないといふこと也。だからこそ己の身を正しくしていなければならんのだとおもふ。



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駿府の御裁断
 『堀鉄団公記』の駿府の御裁断を引用する。

 「是れに於て鉄団公はいよいよ重大なる御決意なされ、同年十二月、家人少々召具して江戸へ赴きたまひ、御舎弟淡路守直重、同主計助直之、同主殿助直忠の御三方始め堀伊賀守利重(故左衛門督秀政主の弟)飯野内膳其他の人々と御相談ありて、台徳公へ一封の書をさゝげ、直清殿の秕政をうたへ給ひしが、明れば慶長十五年二月二十日台徳公は駿府にまします東照公の御召にて江戸を御発興ありければ、公は之を幸機として直ちに御跡をしたひ、同月ニ十四日駿府に御参着の上、尚また一封の書に愁訴を陳じ、東照公の御手許へ捧げられたるが、其の御趣意は、私丹後に於ては敢て越後守の身上を倒し、監物の身上を亡ぼす如きたくらみ毛頭御座なく候間、越後の仕置の儀は、何卒御免し被下べく候、左候へば、せめて一両年も家中の法度相立申すべきか、此段伏して御明鑑を仰ぎ奉ると云ふにありしと云ふ。
 因て台徳公は閏二月二日に、忠俊主と直清殿を駿城の御本丸に召して訴論決せしめられ、東照公は障子を隔て聞召し給へば、執政奉行以下諸老臣悉く陪座し、淡路守直重、主計助直之、伊賀守利重等の方々は鉄団公に従ふて出座せられしに忠俊主(時に十五歳)一封の書を捧げて直清殿の訟を援けらる。東照公御側の人をして之を読ませられしが、只一箇条を聞召されて。忠俊幼弱の者いかで斯かる事を弁ふべき、是皆監物が私に作る所明らかなりとて聞召入れられず、さて直清主と鉄団公に対決せしめられ、互に争論せらるゝ事両三度の後、鉄団公申上られけるは、直清国にありて諸事奸曲をふるまふのみならず、浄土、法華両派の僧徒を集めて宗論をなさしめしが、其是非未だ定まらざるに、浄僧非(?)なりとて十余人を誅したりと訴へられけるを、東照公聞き給ふとひとしく以ての外御気色損じ、御自ら障子を開かせられて直清殿を責め、仰出されけるは、其宗論は誰が免許し、誰が勝敗を評決せしぞと御不審あり、直清殿陳ぜられけるは、智者を以て是非を決せしめ其非なる者を罪に行ひ候と申上られければ、上意には、其智者とは何人ぞ、汝が愚慮を以て宗論の是非を決せるは、汝自身智者と思ひけるや、そも宗論といふは天下の大禁なり、さるに公法を犯して妄りに之を為さしめ、剰(あまつ)さへ己が私意もて決断し、沙門を罪する条、驕從この上あるべからず、この一事もて其余の暴虐を推して知るべしと厳命あり、又忠俊主を詰りて仰られけるは、汝幼弱にて讒訴に惑ひ、家臣兄弟の訴訟を決断すること能はずして此の如く来り訴へしめ、剰へ邪正を弁(わきま)えず讒者を助けんとするは、大国を封ずる器にあらずとて、忽ちに越後国四十五万石を没収し、奥州岩城に謫せられて鳥居左京亮(時に十万石)に預けられ、直清殿も罪せられて出羽の最上(今の山形)に配流され、最上出羽守義光(五十二万石)にあづけられ、(以下略)」

 『堀家の歴史』では、直清と一向宗の争論とあった。『堀鉄団公記』では日蓮宗と浄土真宗の宗論を直清が裁いたとある。真相は分からないが、推測されるのは直清は寺社に対して締め付けを行っていて、直寄は寺社に対して融和的だったといふこと也。紫衣事件で罰せられた沢庵を直寄は自分の別邸に住まわせて赦免を求めたりしていた。この件は朝廷がらみではあるが、武家政権にとって別個に権力、組織を持つ朝廷や寺社の扱いといふのは常に悩みの種で、中世から武家は寺社領を横領して勢力を拡大してきた。一方で獲得した領土から一部を寺社に寄進している。中世比叡山は事実上独立国のやうだったといはれ、足利義教や織田信長が比叡山に大規模に攻撃をしたり、一向一揆が北陸で広がり、誰にも従わない集団が生まれたり。しかしその後の徳川幕府の寺社対策を見ると、引き締めの方策が採られているやうに感じるので、本来は直清の考え方は間違いでなかったのかもしれない。どうしてもこの機に改易したかったのだとおもふ。



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御兄弟の確執
『堀鉄団公記』の御兄弟の確執を引用する。

 「直政公御逝去の後、雅楽助直清殿は仔細なく家督を相続して監物と名のられ、鉄団公と共に幼弱なる越後守忠俊主の後見輔佐として国務を沙汰せられけるが、直清殿は出母同じからずとは云ひ、まさしく御弟なれば、鉄団公に向かっては常に謙抑礼譲せられるべきが情義なるに、己が惣領たるを恃みて、動もすれば驕恣の振舞を顕はし、毫も親しみ給はざりけるに、彼の御感状のいきさつありし以来は、内心鉄団公を疎外したまふこと一層甚だしく、直政公は国中の仕置きは勿論、瑣細の事に至るまで大概鉄団公に御協議の上施行せられけるに直清殿は何事も心の儘に独断専行して朝令暮改の事共多く、随て賞罰正しからずして往々辜なき者をも誅罰せられたりしかば、怨嗟の声喧しきも意に介せられず、然るに勇万方正の御仁なれば、直清殿の御処置を黙視し兼ねて、詞を尽し諫め給ふ事数度なりしも、更に聴き入れらるゝ事なく、果ては面色変えて立腹し、口さかしき足下には対面の要なしとてすげなく座を立たれし事もしばしばなりければ、公は甚だ不快に思ひ居たまひしが、(以下略)」

 直清の政治が一方的に間違っていたとはおもはれぬ。直政も負けん気が強く、争論で柴田佐渡守を改易したといふし、親良も病気で隠棲したといふが一説には直政と不和になったからといふ話もある。直政の血筋はさういふ傾向があるらしく、直清の曾孫にあたる新発田藩家老の堀政親にも次のような逸話が侍り(『新発田藩世臣譜』)。

 「政親、加藤時春と同じく政事のことを聞しに、公の御前にて得失を論じ、互に色を変て争ふ事度々ありしに、公二人の媒となり給ふて御前を退し事ままあり。常に御用を談ずる時は互にあらさふゆへ仲あしかりもやなん見へしが、二人私に相対して説話の時は歓笑して介意なかりしといふ。」

 政事の議論のときは熱くなる気質らしい。改易したがっていた幕府からしてみれば、御家騒動と断じて改易するには都合の良い事実を提供したといふことだらう。もしかしたら直清、直寄共に本心からどちらの政策が正しいか幕府に判断して欲しかったのかもしれない。



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術