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<title>たしなむべし。</title>
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<description>歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。</description>
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<title>試験終わる</title>
<description> 　11月15日に日商簿記１級の試験を受けた。ネットの解答速報で自己採点したら、合格は７０点以上のところ、ＴＡＣで６９点、ＬＥＣで７２点だった（工業簿記の配点予想が少し違う）。びみょーだ～、ものっそいびみょ～だ・・・。年明けに合否通知が来るまでどっちに転ぶか分からない・・・。会計学は満点だったが、他の３科目は１４～１７点と不合格でも仕方がないようなしょっぱい仕上がり具合。でも受かっていてほしい・・・（＞
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<![CDATA[ 　11月15日に日商簿記１級の試験を受けた。ネットの解答速報で自己採点したら、合格は７０点以上のところ、ＴＡＣで６９点、ＬＥＣで７２点だった（工業簿記の配点予想が少し違う）。びみょーだ～、ものっそいびみょ～だ・・・。年明けに合否通知が来るまでどっちに転ぶか分からない・・・。会計学は満点だったが、他の３科目は１４～１７点と不合格でも仕方がないようなしょっぱい仕上がり具合。でも受かっていてほしい・・・（＞人＜）<br /><br />　ここまで頑張った自分へのご褒美として、図書館通いを解禁しようとおもふ。今興味があるのが、『勢州軍記』（『続群書類従』所収）、『名将言行録』、フロイスの『日本史』、『大日本史料』など。<br /><br />　『勢州軍記』は<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%C4%BE%C0%AF" class="tagword">堀直政</a>の『寛政重修諸家譜』の「永禄十二年伊勢国峯城をせむるのとき、直政山岡道阿弥（景友）と槍を合せ、道阿弥が槍をうばひとる、」といふ部分についてウラを取りたいので。といふのは『信長公記』の永禄十二年の伊勢攻めを見ると、桑名から海沿いの道を南下していて、亀山市にある峯城へ攻めた形跡がない上、山岡氏は織田方で参戦している。ネットで山岡道阿弥を調べたら、天正十二年、小牧長久手の戦いの前哨戦で、伊勢峯城攻防戦があり、道阿弥は織田信雄方として峯城に入城していた、といふ記述を見かけた。秀吉方は蒲生氏郷、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C0%AF" class="tagword">堀秀政</a>らが攻め、峯城を落としたらしい。永禄十二年は天正十二年の誤りなのではないかとの仮説を立てるに至った。勢州軍記に山岡道阿弥や、秀政のことが書いてあるのではないかとおもふ。<br /><br />　『名将言行録』は秀政の逸話が多く載っているらしいが、まだ読んだことがない。フロイスの『日本史』に秀政や信長の他の側近のことが載っていないかな～と淡い期待を抱いている。『大日本史料』にまだ見ぬ秀政の書状の数々があるのだろうと今から楽しみ。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/in.php?id=134602" target="_blank"><img src="http://blogranking.fc2.com/ranking_banner/d_04.gif" style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>雑記</dc:subject>
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<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>九州地方の堀氏</title>
<description> 柳川藩の堀氏「嵯峨源氏の堀氏は、戦国時代の末期、筑後の豪族立花道雪の重臣として武名高し。その上祖は嵯峨天皇の裔孫、摂津の渡辺党にて、鎌倉時代の中頃に、越後国赤田保の地頭となりし兵衛尉等に始まれり。等に数人の子息あり。夫ゝ（それぞれ）に系を伝え、主流は近江の豪族赤田氏という。等の五男文五郎長の子孫は、足利尊氏に仕えて九州に赴き、戦功を以て筑後国内に所領を有し、子孫は堀氏を号して次の系あり。(中略)一族
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<![CDATA[ <strong>柳川藩の堀氏</strong><br />「嵯峨源氏の堀氏は、戦国時代の末期、筑後の豪族立花道雪の重臣として武名高し。その上祖は嵯峨天皇の裔孫、摂津の渡辺党にて、鎌倉時代の中頃に、越後国赤田保の地頭となりし兵衛尉等に始まれり。等に数人の子息あり。夫ゝ（それぞれ）に系を伝え、主流は近江の豪族赤田氏という。等の五男文五郎長の子孫は、足利尊氏に仕えて九州に赴き、戦功を以て筑後国内に所領を有し、子孫は堀氏を号して次の系あり。(中略)一族の氏号は古くは堀江なりという。苗字の地は近江国堀江庄との所伝あり。」<br /><br />「等」、「長」といふのは嵯峨源氏特有の漢字一文字の名。源融、源信、渡辺綱などと同じ。紹介されている系図も代々漢字一文字の名。三家ほど柳川藩士の家系があるよう。その庶流から徳島の蜂須賀家に仕官した人も見られる。この人だけなぜか漢字二文字。<br /><br /><strong>熊本藩の堀氏</strong><br />「肥後国熊本の細川藩の重臣堀氏は、本姓菅原氏なり。功績の大なりし平太左衛門勝名は、寛政五年に死す。その子丹右衛門勝文は、三千五百石を知行して家老となり、文政二年に八十二才にて死す。数代を重ねて明治を迎え、今も熊本に在住す。家紋は梅鉢を伝えたり。」<br /><br />堀勝名は菅原姓の堀氏だった。堀直清の子にも熊本藩に仕えた家系がいたやうだが、家紋が梅鉢なら、直清の子ではなく菅原姓で間違いないだろうとおもふ。<br /><br /><strong>福岡藩の堀氏</strong><br />「筑前福岡の黒田藩中に譜代の家臣堀氏あり。黒田長政の家臣、住江茂右衛門の従卒たりし明石久七は、軍功を重ねて藩主の直臣となり、堀平右衛門正儔と名乗る。秋月支藩の家老となり、五千石を知行、後に脱藩して小田原の稲葉正勝に仕えしという。その子に右馬丞あり、家紋は三つ扇なり。是との関係は不明ながら、幕末の頃、藩の槍術師範に堀卯十郎是村あり。尻合わせ三つ雁を家紋として、子孫は福岡市に在住せり。」<br /><br /><strong>大村藩の堀氏</strong><br />「肥前国にも早き頃より堀氏の在住が見ゆ。豪族有馬氏の家中に、南北朝時代の頃に堀兵部少輔の名が見え、近世には大村藩中に此の氏あり。」<br /><br /><strong>唐津藩の堀氏</strong><br />「小田原北条氏の家臣たりし九郎兵衛勝政を上祖として、系を伝う。勝政は江戸にて土井利勝に仕え、二百五十石を知行、下総の古河にて死す。その子政之、その子正尚と伝え、古河より肥前唐津に移る。歴代の事蹟は人名辞書などに詳しく見ゆ。」<br /><br /><strong>豊後国の堀氏</strong><br />「豊後国直入郡の竹田地方には、戦国時代の頃より堀氏が多く見ゆ。百木城主たりし堀対馬守義重は、天正末年には大友氏の部将志賀氏に仕う。子孫は旧地の百木に土着して一族繁栄し、多くの支庶を分出せり。」<br /><br />家紋は三つ星扇紋だそう。大友氏の入国よりも古い氏族もあるようで、上祖は不詳とのこと。<br /><br /><strong>薩摩藩の堀氏</strong><br />「郷土史料によれば、戦国時代の前期に大友政親の娘が島津忠昌に嫁せし時、その侍臣とし族人の堀七郎が随行せり。戦国時代末期には四郎左衛門尉あり、」<br /><br />この他に堀小左衛門の一族、堀新助忠金などの系もあるといふ。『薩陽武鑑』によれば家紋は三つ扇だそう。<br /><br />参考文献は　『堀一族』　日本家系家紋研究所　平成九年六月<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/in.php?id=134602" target="_blank"><img src="http://blogranking.fc2.com/ranking_banner/d_04.gif" style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>全国の堀氏</dc:subject>
<dc:date>2009-11-07T17:53:07+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>東北地方の堀氏</title>
<description> 仙台藩の堀氏「年代は不明ながら、近江国より奥州へ移りし流れあり。戦国時代の後期、堀甚七郎則治は出羽国上田に住す。その子は伊勢友忠、その子源兵衛友重は元和七年より伊達政宗に仕え、鷹師組士となる。累進して三百七十五石余を知行し、子孫は左の系を伝えたり」とあり、友重の子二人と弟二人の家系が藩士として続いたよう。出羽国飽海郡の堀氏「出羽国飽海郡の観音寺城主は、戦国時代末期には来次出雲守氏秀なりき。その家臣
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<![CDATA[ <strong>仙台藩の堀氏</strong><br />「年代は不明ながら、近江国より奥州へ移りし流れあり。戦国時代の後期、堀甚七郎則治は出羽国上田に住す。その子は伊勢友忠、その子源兵衛友重は元和七年より伊達政宗に仕え、鷹師組士となる。累進して三百七十五石余を知行し、子孫は左の系を伝えたり」<br />とあり、友重の子二人と弟二人の家系が藩士として続いたよう。<br /><br /><strong>出羽国飽海郡の堀氏</strong><br />「出羽国飽海郡の観音寺城主は、戦国時代末期には来次出雲守氏秀なりき。その家臣堀大膳に三子あり。長男の市郎左衛門は父と共に米沢に移り、次男の兵助、三男の大膳(父と同名)は旧地に留住し、藤塚の地を開拓せり。新領主の酒井候から召さるゝも、辞退して受けず。子孫は村の大肝煎(大庄屋)となる。」<br />郷土史上の名士が多いといふ。<br /><br /><strong>庄内藩の堀氏</strong><br />「美濃国赤鍋村出身の堀氏も見ゆ。堀直寄の家臣たりし堀治太夫三親は、正保四年に庄内に来りて酒井忠勝に仕え、三百石を給せらる。子孫相続して藩の重臣、加増して七百石となりし彦太夫三久、その子彦太夫三誠（六百石相続）、平太夫季雄（百石分知）などの名士も多し。」<br />家紋は丸に釘抜、新潟や横浜に住んだ家系もあるそう。茜部は赤鍋と書かれることもある。『寛永諸家系図伝』も赤鍋になっている。音だけ聞いて茜部の字が出てくる人はいないからか。<br /><br /><strong>秋田県の堀氏</strong><br />「秋田県由利郡大内町に旧家の堀氏あり。此の地方には由緒の深き名家が数多く見ゆ。」<br /><br /><strong>津軽藩の堀氏</strong><br />「弘前の津軽藩士の堀氏は美濃国出身の人、堀彌三郎を上祖とす。此の人は慶長五年に大垣にて討死。その子伝右衛門は池田長幸に仕えて二百石を知行。その子五郎左衛門正成に到り、慶安三年に津軽信義に召出され、三百石を給せらる。これより伝左衛門利盛を経て、主計利広あり（始め五郎左衛門、弾正）。加増して一千石知行。家老職を勤めて享保四年に死す。子孫相続して利広の玄孫、五郎左衛門利安は、好学の士にて内外に知られたり。」<br /><br />領主から召される（我に仕えよ、と呼び出される）話が多い。堀家が優秀だったのか、人材不足の時代だったのか。今の時代からしたら、うらやましいかぎり。<br /><br />参考文献：『堀一族』　日本家系家紋研究所編　1997<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/in.php?id=134602" target="_blank"><img src="http://blogranking.fc2.com/ranking_banner/d_04.gif" style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>全国の堀氏</dc:subject>
<dc:date>2009-09-22T08:24:59+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>『堀一族』</title>
<description> 先日、父の部屋である本が発見された。『堀一族』　編集人　日本家系家紋研究所　発売元　日本家系協会　平成九年六月吉日発行限定五百部（のうち我が家のは２７６と番号がついていた）いろいろな氏の『○○一族』が既刊一覧に載っていて、『堀一族』もそのうちのひとつ。父がたまたま新聞の広告欄で見つけて買っておいたらしい。美濃の堀氏についても秀政の家系以外にも他へ移り住んだ人が載っていたし、全国の堀氏について載ってい
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<![CDATA[ 先日、父の部屋である本が発見された。<br /><br />『堀一族』　編集人　日本家系家紋研究所　発売元　日本家系協会　平成九年六月吉日発行<br />限定五百部（のうち我が家のは２７６と番号がついていた）<br /><br />いろいろな氏の『○○一族』が既刊一覧に載っていて、『堀一族』もそのうちのひとつ。父がたまたま新聞の広告欄で見つけて買っておいたらしい。美濃の堀氏についても秀政の家系以外にも他へ移り住んだ人が載っていたし、全国の堀氏について載っていた。順次紹介していこうとおもふが、ここで主なものを挙げると、大和、紀伊地方に藤原氏熊野別当系の堀氏、播磨赤松氏の家臣に菅原姓の堀氏、九州に少弐氏、大友氏庶流の堀氏、そこから薩摩へ分かれた堀氏。越中射水郡の堀氏、嵯峨源氏、清和源氏の堀氏などなど。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>雑記</dc:subject>
<dc:date>2009-08-14T08:30:44+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>三社託宣</title>
<description> 朱子学関係で、お気に入りの文を紹介したし。「闇斎の父は、その父（闇斎の祖父）の思い出を、こう語っている。人となりは正直で、武への志が強かった。若い頃から古筆の「三社託宣」一幅を大切に持っていて、朝夕にこれを誦え、これに拝謁する時には、必ず手を洗い口を漱いで、羽織袴を身に着けていた。「三社託宣」とは、天照皇大神宮の託宣と称されるものを中心に、左右に八幡大菩薩・春日大明神の託宣とされるものを配当したも
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<![CDATA[ 朱子学関係で、お気に入りの文を紹介したし。<br /><br />「闇斎の父は、その父（闇斎の祖父）の思い出を、こう語っている。人となりは正直で、武への志が強かった。若い頃から古筆の「三社託宣」一幅を大切に持っていて、朝夕にこれを誦え、これに拝謁する時には、必ず手を洗い口を漱いで、羽織袴を身に着けていた。「三社託宣」とは、天照皇大神宮の託宣と称されるものを中心に、左右に八幡大菩薩・春日大明神の託宣とされるものを配当したもので、室町時代から一般に広く流行し、軸装して礼拝の対象ともされていたという。闇斎の祖父も、そういう信仰を持つ一人だったのである。「三社託宣」の内容は、以下のようなものである（字句には多少の異同がある）。<br /><br />八幡大菩薩　　　雖為食鉄丸、不受心汚人之物、雖為座銅焔、不到心穢人之処<br />天照皇大神宮　　謀計雖為眼前利益、必当神明之罰、正直雖非一旦依怙、終蒙日月之憐、<br />春日大明神　　　雖曳千日注連、不到邪見之家、雖為重服深厚、可趣慈悲之室<br /><br />　そこで説かれる徳目は、正直・清浄・慈悲であり、人々のメッセージとしてあるのものは、目先の利害にとらわれずに「心」の正直な人間として生きよ、神々は全てを見通していて、「心」の汚れた者には、神々の守護は決して与えられないという処世の教訓である。祖父は、子供たちにもこれを暗誦させ、みだりに手を触れることをさえ許さなかったという。軸装されたこの「三社託宣」は、孫の闇斎に与えられた。祖父は日々の暮らしの中で「三社託宣」に説かれている心の清浄・正直を重んじた、素朴な敬虔さをもった老人だったのだろう。闇斎の祖母は、口数の少ない、しかし気性の烈しい女性であり、闇斎やその姉たちに、よく「身一貫目百貫」という諺を口にして、「目」つまり書物を読むことの大切さを教えたと言われる。」<br />『山崎闇斎の世界』　田尻祐一郎　ぺりかん社　2006.7<br /><br />三社託宣の漢文を読み下すと（自己流）、<br /><br />八幡大菩薩　たとえ鉄丸を食わされようとも、心の汚れた人の物を受け取らず、たとえ銅焔（熱せられた銅）の上に座らせられようとも、心穢れた人のところへ到らず(行かない)。<br /><br />天照皇大神宮　謀計によりたとえ眼前の利益を為しても、必ずや神明の罰が当たる。正直によりたとえ一旦は依怙贔屓を受けられなくとも、最後には日月の憐れみをこうむる。<br /><br />春日大明神　たとえ千日しめ縄を曳いてあっても、邪見（邪な価値観）の家には到らず、たとえ父母の喪（重い忌服）を篤く為していたとしても、慈悲深い室（部屋あるいは側室）へ赴くべし。<br /><br />こういふ素朴な道徳観が受け継がれている家であれば、道徳の退廃もなく、変な宗教にも丸め込まれずに済むのだらう。「身一貫目百貫」もお気に入り。<br /><br />ちなみに試験勉強はちゃんとやっています。息抜きにたまに更新します。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>古典</dc:subject>
<dc:date>2009-07-12T08:21:11+09:00</dc:date>
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<title>試験勉強</title>
<description> 　日商簿記１級の試験が６月１４日にあり、ずっと試験勉強をしていました。自己採点で４０点弱。完全に勉強時間が足りない。仕事をしながらなので、平日は昼休みに３０分、夜に１時間がいいところで、それ以上やろうとしても、頭が回らなくつまらないミスばかりして能率が悪い。朝はたまに起きれたときに３０分。休日は一日中できるはずだが、平日に全く息抜きができていないので、息抜きに音楽、ゲームなどをやると、結局３～５時
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<![CDATA[ 　日商簿記１級の試験が６月１４日にあり、ずっと試験勉強をしていました。自己採点で４０点弱。完全に勉強時間が足りない。仕事をしながらなので、平日は昼休みに３０分、夜に１時間がいいところで、それ以上やろうとしても、頭が回らなくつまらないミスばかりして能率が悪い。朝はたまに起きれたときに３０分。休日は一日中できるはずだが、平日に全く息抜きができていないので、息抜きに音楽、ゲームなどをやると、結局３～５時間程度しかできない。<br />　試験までに問題集を一回通して解くのも最後のほうは飛ばし飛ばしで、過去問は全く手付かず。幸いＴＡＣの直前予想を２回ずつ解いたおかげで、上記の点くらいになった。ＴＡＣの予想はまあまあ当たっていた。次の試験は１１月。今も暇を見ては問題を解くようにしている。<br /><br />　堀家の歴史は図書館に行く時間があれば『寛永諸家系図伝』『堀鉄団公記』など紹介したいが、しばらくは無理そう。堀家の歴史といっても過去の話ばかりでなく、現在の堀家の活躍を知る場にするのもよいかもしれない。私だけではなく、ここに来る堀さんたちから自分や親戚がどこでどうしているかコメントをいただければ、それが新しい堀家の歴史をつくることになるのではないかと思います。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>雑記</dc:subject>
<dc:date>2009-06-20T08:32:14+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>『寛政重修諸家譜』堀秀政</title>
<description> 史料掲載シリーズ。今回は『寛政重修諸家譜』の堀秀政の項。「秀政　菊千代　久太郎　左衛門督　従五位下　侍従　従四位下　母は加賀守某が女、天文二十二年美濃国茜部に生る、いとけなうして伯父掃部大夫某がもとに住し、のちまた織田右府（信長）の臣大津伝十郎某がもとにありといへども、身を立べからざるをしるがゆへに、去て豊臣太閤に従ふ、永禄八年織田右府太閤のもとにいたり秀政をみて家臣となすべしといふ、これより右府
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<![CDATA[ 史料掲載シリーズ。今回は『寛政重修諸家譜』の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C0%AF" class="tagword">堀秀政</a>の項。<br /><br />「秀政　菊千代　久太郎　左衛門督　従五位下　侍従　従四位下　母は加賀守某が女、<br />天文二十二年美濃国茜部に生る、いとけなうして伯父掃部大夫某がもとに住し、のちまた織田右府（信長）の臣大津伝十郎某がもとにありといへども、身を立べからざるをしるがゆへに、去て豊臣太閤に従ふ、永禄八年織田右府太閤のもとにいたり秀政をみて家臣となすべしといふ、これより右府につかふ、（時に十三歳）のち近江国坂田郡のうちにをいて二万五千石を領す、天正元年越前国にをいて一向専修の門徒蜂起す、秀政これをしづめんがために彼地に行く、まづ京師によぎり、本願寺の書を請て越前国にいたり、その書をもつて一揆等にしめす、逆徒すみやかに服従す、五年二月紀伊国雑賀の徒一揆を企るのとき、また彼地にいたり、七年八月織田信忠にしたがひて荒木摂津守村重を討、九年九月八日近江国長浜の城主となり、十年三月右府にしたがひ甲斐国に赴く、この年備中国高松の城攻に、検使にさゝれて彼地にあり、ときに京師にをいて右府父子の事あるをきゝ、豊臣太閤にこふて山崎の先鋒となり、天王山に登り、明智光秀と戦ひ勝利を得たり、また大津打出浜の合戦に、明智左馬助某と戦ひをまじへてこれを破る、これより太閤に属し、羽柴の称号をたまふ、十一年二月太閤にしたがひ近江国佐禰山の砦を守り、柴田勝家佐久間盛政と兵をまじへ、秀政が手に勝家の金の幣の馬幟および首二級を得たり、のち太閤越前国に進発のとき扈従し、この年近江国佐和山城をたまひ九万石を領す、十二年四月、長久手の合戦に首二百八十余級を討取、楽田に兵を収む、十三年三月太閤紀伊国根来寺を討んとして彼地に旗をむけらる、秀政筒井順慶長谷川秀一とゝもに千石堀を攻、先がけして終にこれをやぶる、六月、豊臣秀次及び羽柴秀長にしたがひ四国に赴く、七月従四位下侍従に叙任し左衛門督と称す、閏八月十三日封を越前国にうつされ、北庄の城主となり、十八万八百石余を領し、六万六千石を村上周防守義明、四万四千石を溝口伯耆守秀勝にあたへられ、秀政が与力とせらる、十五年の春太閤島津義久を征伐あるに供奉し、十八年四月朔日小田原の陣営にをいて太閤備定の令を下し、一番、村上周防守義明、柴田源左衛門勝全、二番、溝口伯耆守秀勝、堀監物直政、神子田八右衛門某、この二備、隔日交代で一番に備ふべし、三番、丹羽五郎左衛門長重をして右備の大将とし、秀政を左備の大将とし、四番、木村常陸介重高、五番、長谷川藤五郎秀一、六番、岐阜侍従秀信とし、各機に臨みて鉄砲の士卒を出すべしと触らる、すでにして箱根山に攻のぼり、日夜いどみたゝかふ、この年五月二十七日早川口の陣中にをいて卒す、年三十八、高嶽道哲東樹院と号す、北庄の長慶寺に葬り、のち越後国春日山の林泉寺に改葬す、室は喜多嶋和泉守某が女、」<br /><br /><a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C0%AF" class="tagword">堀秀政</a>に関しては、『堀家の歴史』、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%A5%C5%C4%BF%AE%C4%B9" class="tagword">織田信長</a>家臣人名事典』などもあるが、全文のせるのは著作権の問題もあるだらうし、文量がとてつもない。九割がたはこれまでのブログで紹介できている。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%A5%C5%C4%BF%AE%C4%B9" class="tagword">織田信長</a>家臣人名事典』は県立図書館や市立の中央図書館ならどこでも置いていると思うので興味のある方は参照されたし。以下に一部引用する。<br /><br />「これらの事実は、秀政の力が柴田・羽柴ら歴戦の部将を立場上凌駕しているかのような感をさえいだかせる。もちろん当時の秀政は、戦場においては信長馬廻にすぎず、戦闘能力において部将たちに比べるべくもないが、信長の信頼厚い側近として、柴田ら有力な部将たちさえ一目置く存在だったようである。これは単に秀政が信長の寵愛を受けていたというばかりでなく、『老人雑話』に「堀左衛門傑出の人也」と書かれている通り、その資質によるものであろう。秀政まだ二十五、六の若さである。」<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>史料掲載</dc:subject>
<dc:date>2009-04-18T08:43:09+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>『寛政重修諸家譜』堀利季～秀重</title>
<description> 史料掲載シリーズ。今回は『寛政重修諸家譜』の堀利季から秀重の兄弟まで。『寛永諸家系図伝』は未入手のため後日。「寛政重修諸家譜巻第七百六十四藤原氏　利仁流　堀掃部大夫某は鎮守府将軍利仁八代の孫堀権大夫季高が後胤なり、其子孫越後守忠俊がときにいたりて松平の称号をたまひ、のち罪かうぶりて家たゆ、」　堀利季（としすえ）「某　掃部大夫斎藤道三につかへ、美濃国厚見郡のうち茜部上下の両村を知行し、のち数度の軍功
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<![CDATA[ 史料掲載シリーズ。今回は『寛政重修諸家譜』の堀利季から秀重の兄弟まで。『寛永諸家系図伝』は未入手のため後日。<br /><br />「寛政重修諸家譜巻第七百六十四<br />藤原氏　利仁流<br />　堀<br />掃部大夫某は鎮守府将軍利仁八代の孫堀権大夫季高が後胤なり、<br />其子孫越後守忠俊がときにいたりて松平の称号をたまひ、のち罪かうぶりて家たゆ、」<br />　<br /><strong>堀利季（としすえ）</strong><br />「某　掃部大夫<br />斎藤道三につかへ、美濃国厚見郡のうち茜部上下の両村を知行し、のち数度の軍功により、采地近辺のものを与力とし、かつ朱具足一領をあたへらる、」<br /><br /><strong>堀利房</strong><br />「某　六介　掃部大夫<br />父とともに道三につかへ、軍功あるにより長光の刀をあたへらる、」　<br /><br /><strong>利房の子達</strong><br />「某　掃部大夫　母は某氏、<br />脚疾ありて歩行かなはざるにより、茜部村に蟄居し、一向門徒の僧となる、しかれども剃髪せざるにより、邑人これを毛坊と称す、」（秀政の伯父毛坊主）<br /><br />「女子　母は某氏、奥田七郎五郎某が妻、」（直政の母）<br /><br />「秀重　掃部大夫　太郎左衛門　母は某氏、<br />天文元年生る、はじめ道三につかへ、のち織田右府（信長）に属し、近江国坂田郡にをいて三千石の采地をあたへられ、旧領に合せて五千石を知行し、のち豊臣太閤につかへ、加恩ありて一万石を領し、のち左文字の脇指を賜ふ、秀重太閤に属すといへども、よりより東照宮に拝謁し、しばしば厚恩をかうぶる、慶長五年関東御凱旋のゝちまみえたてまつり、かの脇差を献す、ときに貞宗の御脇指をたまはり、そのゝち嫡孫左衛門督秀治が封内にをいて一万四百石の地をたまはる、十一年十一月二十八日卒す、年七十五、松林道伯東浄寺と号す、越後国春日山の林泉寺に葬る、室は三田村加賀守某が女、」<br /><br />「某　治右衛門　母は某氏、」<br /><br />秀重の弟に治右衛門といふ人がいる。<br /><br />註：邑＝村<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>史料掲載</dc:subject>
<dc:date>2009-04-10T08:24:48+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>新潟へ帰郷</title>
<description> 　四月からまた新潟に戻ることに。堀直政没後四百年の節目の年に岐阜茜部に訪れることができ、二〇〇八年は一生忘れられない一年となった。一年で三回訪れることができ、茜部も岐阜市街も大好きな町になった。直政も死の間際には茜部に帰りたいと思っていて、それで我が導かれたのか、などと想像してみる。私的には名古屋に来たことがきっかけで、志を立てるに至ったので、ご先祖が我を励ますために呼んだのだと思っている。「天文
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<![CDATA[ 　四月からまた新潟に戻ることに。堀直政没後四百年の節目の年に岐阜茜部に訪れることができ、二〇〇八年は一生忘れられない一年となった。一年で三回訪れることができ、茜部も岐阜市街も大好きな町になった。直政も死の間際には茜部に帰りたいと思っていて、それで我が導かれたのか、などと想像してみる。私的には名古屋に来たことがきっかけで、志を立てるに至ったので、ご先祖が我を励ますために呼んだのだと思っている。<br /><br />「天文十一年、斎藤秀龍入道々三其主土岐頼芸を逐ふて美濃一国を簒奪しければ、<strong>秀種慨然として機に乗じ遠祖の業を興さんと欲し</strong>茜部の「さし屋敷」と云ふ所にさゝやかながら砦を構へて、薮田、鵜面等の地五百貫を領し、<strong>旧族古家を始め少しも豪俊の聞えある者には好みを結びて、貧を恵み飢を救ふを以て務とせられし程に</strong>近藤、河村、不破、小畠、伴、大野、谷、片岡、小川、速水、梅戸、川手、岡田、小泉、奥山、雑賀杯云へる人々心服してなづき親しむ、奥田家の発祥蓋しこゝに基きけるとぞ。」『堀鉄団公記』<br /><br />　このくだりをとても気に入っていて、我も奥田秀種のように家を興し、仲間を助けられるようになりたいとおもふやうになった。税理士を目指すことにした。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>雑記</dc:subject>
<dc:date>2009-03-20T15:38:20+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>悪七郎五郎</title>
<description> これから、各資料を図書館に行かずとも手軽に参照できるよう人物別に掲載していこうとおもふ。今回は奥田直純。　「某　七郎五郎、　斉藤道三息男義辰と父子不知（不和？）なるによりて濃州鷺山にをひて兵を卒し、すてに勝負をけつせんとす。このとき大ぢからの道家（だうけ）孫次郎緋縅（ひおどし）の鎧を着、たゝ一騎のゝしりいつ、味方の士面をあはする者なし、ときに七郎五郎すゝみかけいて、道家とあひくみ、雄をあらそふ、七
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<![CDATA[ これから、各資料を図書館に行かずとも手軽に参照できるよう人物別に掲載していこうとおもふ。今回は奥田直純。<br /><br />　「某　七郎五郎、　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%C6%C6%A3%C6%BB%BB%B0" class="tagword">斉藤道三</a>息男義辰と父子不知（不和？）なるによりて濃州鷺山にをひて兵を卒し、すてに勝負をけつせんとす。このとき大ぢからの道家（だうけ）孫次郎緋縅（ひおどし）の鎧を着、たゝ一騎のゝしりいつ、味方の士面をあはする者なし、ときに七郎五郎すゝみかけいて、道家とあひくみ、雄をあらそふ、七郎五郎も又緋縅の鎧を着ければ、赤色あひましわりてわかちかたし、しかれともつゐに道家が首を得たり、これによりて世人悪七郎五郎とよぶ、」『寛永諸家系図伝』<br /><br />　「某　七郎五郎　直方が呈譜に、直純（なおずみ）或利直（としなお）に作る、<br />美濃国茜部のさゝ屋敷に小城をかまへ、五百貫文の地を領す、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%C6%C6%A3%C6%BB%BB%B0" class="tagword">斉藤道三</a>其男左京大夫義龍と矛盾の、美濃国鷺山にをいて戦ひをいどむ、ときに勇力のきこえありし道家孫次郎某と組て終に其首を得たり、世人これより悪七郎五郎と称す、元亀二年九月二十二日死す、年四十八、法名道存、妻は堀掃部大夫某が女、」『寛政重修諸家譜』<br /><br />　「秀種が子を七郎五郎直純（初め利直）と云ふ、状貌魁偉にして身の丈七尺に余り、膂力人にすぐれ、音声朗らかに遠く聞えたりき、弘治二年四月、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%C6%C6%A3%C6%BB%BB%B0" class="tagword">斉藤道三</a>、長子義龍を疎みて次子龍元を立てんとせしかば、義龍怒りて道三出猟せるに乗じ、龍元及び其の弟龍之を誘殺して道三を逐ひければ、道三奔つて鷺山の城に楯籠る。時に直純、義龍に加勢して城近く攻寄せけるが、敵陣中に道家孫次郎とて剛力の士あり、朱塗の物具に身を堅め、穂長の槍を横たへて進出で、我と能く刃を交へ力を争はん者あらば来りて雌雄を決せよと喚はりしが時人渠を大力道家と稱（称）して日頃怖れ居たりし程に我こそと云ふ者なかりしかば、道家益々侮りて頻りに叫び罵りけるを、直純聞くに耐かねて、吾必ず渠を取ひしがんと誓言して後陣より進み出でしに、道家うしろに山を負ひ、右に谷を控へて地の利を占め居たり、直純哂笑ふて、臆病武者の遠吠とは汝が事よ、汝こそ進み来たれ、我は此処より一歩も退かじ、寄手はハヤ汝が背後に攀じ登り居るを知らずやと云へば、道家欺かるゝとも知らず、ふりかへりためらうを、直純得たりと走り寄り、槍を捻つて左の頬より口中へ突刺しけるに、道家？を噛みて放たざれば、槍を棄てムヅと引組み、輾転相搏つて闘ひける、時に直純も朱の物具をしたる事とて何れを味方とも分けかねしが、直純の力優りければ終に道家の首を掻切つて、高やかに差揚げ、これ見よと呼ばはりければ、味方が歓呼の声山谷にひゞきて大軍の押寄せし如くなりける程に、敵は浮足立つて散々に打負け、道三あへなく討たれたりければ、義龍大に喜びて五百貫の地を加へて賞せられける、世の人直純を悪七郎五郎を稱ぜしは此の時よりの事なりけり。<br />この直純が用ゐられし物とて古くより住吉神社に唐冠の兜を蔵めらる。或記によれば、遠祖足利修理大夫高経より伝来の物なれば、我嫡流代々之を伝へて庶流に渡すべからずと直純申遣されたりと云ふ。其の作いかにもいがめしければ、被りし人のいかに魁梧なりしかを想察するに足りぬ。<br />　直純、織田家に仕へて近江国坂田郡を領したる堀太郎左衛門尉秀重の姉に添ふてニ子を設け、元亀二年九月二十三日、四十八歳にて卒せらる。」『堀鉄団公記』<br /><br />「秀種の子七郎五郎直純は、身の丈七尺にして膂力は衆にすぐれ、始め斉藤義竜の味方となった。義竜は一代の梟雄といわれた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%C6%C6%A3%C6%BB%BB%B0" class="tagword">斉藤道三</a>の養子で、かつて道三が西村勘九郎と名乗っていたとき、主君の土岐頼芸の妻三好野と呼応して頼芸を追放、美濃一国を手中に治めたとき、三好野はすでに頼芸の子を身籠っていたため、道三はこれを養って嫡子とした。こうした事情から、義竜は父子相克を演じ、長良川の畔において養父道三を殺した。<br />奥田直純はこの戦いに無双の怪力をうたわれた道家孫次郎と戦い、その首級を上げ、世人はたれしもその勇武を賞したという。（のちに悪七郎五郎との異名で呼ばれるほどであった。）ときに弘治二年四月の頃である。<br />　のちさらに織田信長に従い、その勇猛を謳われたが、惜くも元亀二年（一五七一）九月二十三日美濃において病没した。行年四十八。」『堀家の歴史』<br /><br />悪～、鬼～といふ呼び名は、武勇に優れた者を賞賛するときにつけられたらしい。『堀鉄団公記』の語り方、描写は見事とおもふ。ふたりがあらそふ場面、直純の勝利で味方の士気が上がり、義龍側が勝利するといふ流れ、有名ではないが歴史に重要な役割を果たしている感じがかっこよい。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>史料掲載</dc:subject>
<dc:date>2009-03-14T14:54:14+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>美濃国堀之内</title>
<description> 　先日、岐阜市西改田へ行ってきた。ここに堀之内といふバス停がある。藤原氏利仁流堀氏は、利仁将軍八代孫の藤原季高（すえたか）が美濃国堀之内に土着し、堀氏を称したのが始まりといふ。付近の地形は北に山があり、南へ向かって平らに開けていて、東改田の方には山と水田の美しい景色があった。この景色を九百年前くらいのご先祖も気に入ったのだろうなと感慨にふける。こちらは、堀之内バス停のすぐ側にあった神社。お参りして
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<![CDATA[ 　先日、岐阜市西改田へ行ってきた。ここに堀之内といふバス停がある。藤原氏利仁流堀氏は、利仁将軍八代孫の藤原季高（すえたか）が美濃国堀之内に土着し、堀氏を称したのが始まりといふ。付近の地形は北に山があり、南へ向かって平らに開けていて、東改田の方には山と水田の美しい景色があった。この景色を九百年前くらいのご先祖も気に入ったのだろうなと感慨にふける。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-31.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20090307110507.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-31.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20090307110507.jpg" alt="堀之内バス停" border="0" /></a><br /><br />こちらは、堀之内バス停のすぐ側にあった神社。お参りしておいた。<br /><a href="http://blog-imgs-31.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20090307110536.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-31.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20090307110536.jpg" alt="堀之内の神社" border="0" /></a><br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（美濃、近江）</dc:subject>
<dc:date>2009-03-07T11:16:51+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>吾が家系(？)</title>
<description> 　吾が家系と推測しているのは、堀直清の六男主馬之助直正の血筋で、直正―直行―直満―政親―政恒ときて、政恒の三男六三郎が溝口四郎左衛門長恒の養子に入り、久長と名乗れり。久長の子は善長といい、善長の二男市輔が堀五郎右衛門家に養子に入った。ちなみに善長の弟享次郎は堀主計家に養子に入り、永頼と名乗れり。途中から直の字を使わなくなったのは、藩主が直の字を使うようになったため、同じ名を憚ってのこと。堀主計家は頼の
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<![CDATA[ 　吾が家系と推測しているのは、堀直清の六男主馬之助直正の血筋で、直正―直行―直満―政親―政恒ときて、政恒の三男六三郎が溝口四郎左衛門長恒の養子に入り、久長と名乗れり。久長の子は善長といい、<strong>善長の二男市輔が堀五郎右衛門家に養子に入った。</strong>ちなみに善長の弟享次郎は堀主計家に養子に入り、永頼と名乗れり。途中から直の字を使わなくなったのは、藩主が直の字を使うようになったため、同じ名を憚ってのこと。堀主計家は頼の字、堀五郎右衛門家は政の字、堀丈大夫家（および其の分家）は政、徳の字を用いるようになる。<br />　この市輔といふ名が本家の屋号と同じ（ただし輔の字が違う市助）ことと、我が家の戸籍の高祖母（ひいひいおばあさん）の欄に、「亡祖父市助二女」とあり、婿をもらい家が起こったといふ口伝と合致する（亡祖父とは曽祖父が戸主なので曽祖父から見て）。この高祖母が生まれたのが天保三年（一八三三年）とあり、新発田の市輔は史料からそのとき二十四歳であるので、年代的には無理がない。それから本当の本家は北海道へ行ったといふ証言がある。明治の『賜禄帳』で堀氏を参照すると、禄高と名から堀政太郎といふ人物が堀五郎右衛門家であると推測され、その政太郎は『奉還禄高及目途職業一覧』には「開拓」とあり、証言と合う。<br />　しかし、合わないところもある。新発田の市輔は後に要人（かなめ）政懋（懋は人名としての読みは、ちか、みち、なか、つよ、などがあるといふ）と名を改めている。そして安政三年の『武鑑』では堀五郎右衛門と再び改めている。濁川に移住したときに若い頃の名を使ったのか、あるいは別人なのか。新発田と濁川に同世代で同姓同名がいる確率はあまり高くないとおもふが。もうひとつ、本当の本家の墓といふのがあり、そこには明治四十一年とある。藩士を辞めてほどなくして北海道に行ったのなら、なぜ明治四十一年に濁川に墓を建てたのかといふ謎が残る。<br />　本家の戸籍も見せてもらった。我が家の高祖母の兄弟は堀市次郎といふ名だった。政太郎と市次郎が兄弟だとすると、市輔は長男に家の代々の政の字、二男に自分の市の字を付けたのだらう。市次郎は新発田藩の史料には出て来ない。仕官はしなかったやう也。兄弟であればだが。それと、明治以降も何人か政の字がつく人がいる。明治以降は名は一つと決められたため、あざな系の～太郎、～吉などの名前と、いみな系の政親、直正などの名前に分かれるため全員ではない。また、親戚関係ではないが、近所に徳の字のつく堀氏もいるやう。新発田の堀氏はやはりこの近辺に移住してきているのではないかとおもふ。名前に使う漢字はただの偶然といふこともあるが。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（江戸期以降）</dc:subject>
<dc:date>2009-02-07T15:08:16+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>堀主計家にまつわる話</title>
<description> 『新発田藩世臣譜』より引用する。句読点、一部読み仮名は我の編集。原文「玉ふ」を、を「給ふ、賜ふ」に直している。括弧内は註のような形で小さく書かれている部分。　「主計直浄は幼名杢之助又忠三郎ともいへり。主馬助直正の兄なれば直正の先祖と同じきなり。父監物直清配流と成り卒せし後、堀丹後守直寄に仕へ三千石を領し士（さむらい）大将たりしが、直寄の嫡孫直定寛永十九年三月二日七歳にて卒せられ断絶せし時、浪人せし
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<![CDATA[ 『新発田藩世臣譜』より引用する。句読点、一部読み仮名は我の編集。原文「玉ふ」を、を「給ふ、賜ふ」に直している。括弧内は註のような形で小さく書かれている部分。<br /><br />　「主計直浄は幼名杢之助又忠三郎ともいへり。主馬助直正の兄なれば直正の先祖と同じきなり。父監物直清配流と成り卒せし後、堀丹後守直寄に仕へ三千石を領し士（さむらい）大将たりしが、直寄の嫡孫直定寛永十九年三月二日七歳にて卒せられ断絶せし時、浪人せしを正保二年長寿院殿の御甥なれば宣直公御招きありて当家へ来り本藩の臣となる。<br />　一説に村上より御府内五十公野（いじみの）安楽寺へ来りしを召出され、「御宛行もなく藩中に居せし」といへり、また或記に直浄他所奉公を心掛て五十公野（いじみの）安楽寺に止宿せしを宣直公を聞し召し、山庄小左衛門盛浄御使として「先知ほどは遣しかたし千石にても苦しからずは弟主馬も此地に居る事なれば他邦にまゐらずとも、とどまり奉公いたすべし」と仰せ遣れしとなり。<br />　千二百石を給へ組頭にて与力二人（中山杢兵衛、犬井新五右衛門是なり）を付給ふ。正保三年下館御在番御供せり。明暦の頃御仕置役と成り、寛文二年増上寺御普請御手伝の時大奉行を勤めり。延宝四年六月廿一日願に依て御免しあり（制札名前及他所への書翰は御仕置役の通りなり、妻は直寄が臣大窪志摩が女なり、<strong>東照宮より監物直清に給ひし御感書此家に蔵せり</strong>。）同六年七月十五日病死せり。」<br /><br />　「堀蔵人直隆は直浄が二男たり。宣直公御代より召出され（年号聞かず）近習の士たりしが、御隠居遊ばして御部屋附の御用役を勤め三百石を賜りぬ。天和二年（延宝六年と政事記にあり）武頭に至りしが（輪違組御預け）故ありて御暇を賜り在宅せり。元禄元年再勤して旧知の如く武頭を勤り（千切組御預け）。病身のよし願ひしかば、同五年五月廿三日武頭を御免ありしが、直方候直好が養子と成り給ひし後、重雄公直好が元へ御入ありし時（元禄八年九月廿五日なり）直隆へ二百石御加増ありて（元禄六年九月五日、病の御礼申上し時御旗組御預の命あり）宝永二年四月又百石御加増旗奉行に命あり、六百石まで給りぬ。同四年二月廿日六十三歳にて病死せり（<strong>直隆一族亀甲のうちに花菱を定紋とす。替紋は一つ釘抜を定紋とせしに、ある時村松より亀甲を定紋に致し度（たき）由云ひ来りしに、直隆ゆるさぬと云伝ふ。訳ある事ならん、いまだ聞かず</strong>）。」<br /><br />　主計直浄は直清の二男。此の家に家康からの御感書があるといふ。長男の家系は断絶したのだろうか。『寛政家譜』には酒井讃岐守に仕えたとあるが。直清は直浄に期待していたのだろうか。その直浄が直寄に仕えたのだから、直寄に悪い感情は持っていなかったのか？しかし直浄の二男直隆は、村松から「亀甲に花菱」の家紋を使いたいと申し出があった際断っている。村松にわだかまりがあったのか、それとも単にしきたりに関して保守的だったのか。この直隆の家系は、のちに堀五郎右衛門という名を代々継ぐようになる。<br />　<br />　堀主計家も堀五郎右衛門家も跡継ぎなく、他家から養子が入るが、それも絶え、両家とも同族の堀丈大夫家（直清の六男主馬助直正の家系）の血筋から養子が入り、明治に至る。迷信深いところのある我は、直浄が直寄に仕えたことをあの世で直清が嫌って家系が絶えたのかなどともおもふが、御感書を継いでいるからそれはないか、ともおもふ。家が続くといふのは容易な道のりではないといふこと也。だからこそ己の身を正しくしていなければならんのだとおもふ。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。 ]]>
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<dc:subject>堀氏（江戸期以降）</dc:subject>
<dc:date>2009-01-12T08:41:54+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>駿府の御裁断</title>
<description> 　『堀鉄団公記』の駿府の御裁断を引用する。　「是れに於て鉄団公はいよいよ重大なる御決意なされ、同年十二月、家人少々召具して江戸へ赴きたまひ、御舎弟淡路守直重、同主計助直之、同主殿助直忠の御三方始め堀伊賀守利重（故左衛門督秀政主の弟）飯野内膳其他の人々と御相談ありて、台徳公へ一封の書をさゝげ、直清殿の秕政をうたへ給ひしが、明れば慶長十五年二月二十日台徳公は駿府にまします東照公の御召にて江戸を御発興あ
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<![CDATA[ 　『堀鉄団公記』の駿府の御裁断を引用する。<br /><br />　「是れに於て鉄団公はいよいよ重大なる御決意なされ、同年十二月、家人少々召具して江戸へ赴きたまひ、御舎弟淡路守直重、同主計助直之、同主殿助直忠の御三方始め堀伊賀守利重（故左衛門督秀政主の弟）飯野内膳其他の人々と御相談ありて、台徳公へ一封の書をさゝげ、直清殿の秕政をうたへ給ひしが、明れば慶長十五年二月二十日台徳公は駿府にまします東照公の御召にて江戸を御発興ありければ、公は之を幸機として直ちに御跡をしたひ、同月ニ十四日駿府に御参着の上、尚また一封の書に愁訴を陳じ、東照公の御手許へ捧げられたるが、其の御趣意は、私丹後に於ては敢て越後守の身上を倒し、監物の身上を亡ぼす如きたくらみ毛頭御座なく候間、越後の仕置の儀は、何卒御免し被下べく候、左候へば、せめて一両年も家中の法度相立申すべきか、此段伏して御明鑑を仰ぎ奉ると云ふにありしと云ふ。<br />　因て台徳公は閏二月二日に、忠俊主と直清殿を駿城の御本丸に召して訴論決せしめられ、東照公は障子を隔て聞召し給へば、執政奉行以下諸老臣悉く陪座し、淡路守直重、主計助直之、伊賀守利重等の方々は鉄団公に従ふて出座せられしに忠俊主（時に十五歳）一封の書を捧げて直清殿の訟を援けらる。東照公御側の人をして之を読ませられしが、只一箇条を聞召されて。忠俊幼弱の者いかで斯かる事を弁ふべき、是皆監物が私に作る所明らかなりとて聞召入れられず、さて直清主と鉄団公に対決せしめられ、互に争論せらるゝ事両三度の後、鉄団公申上られけるは、<strong>直清国にありて諸事奸曲をふるまふのみならず、浄土、法華両派の僧徒を集めて宗論をなさしめしが、其是非未だ定まらざるに、浄僧非(？)なりとて十余人を誅したりと訴へられけるを、</strong>東照公聞き給ふとひとしく以ての外御気色損じ、御自ら障子を開かせられて直清殿を責め、仰出されけるは、其宗論は誰が免許し、誰が勝敗を評決せしぞと御不審あり、直清殿陳ぜられけるは、智者を以て是非を決せしめ其非なる者を罪に行ひ候と申上られければ、上意には、其智者とは何人ぞ、汝が愚慮を以て宗論の是非を決せるは、汝自身智者と思ひけるや、そも宗論といふは天下の大禁なり、さるに公法を犯して妄りに之を為さしめ、剰（あまつ）さへ己が私意もて決断し、沙門を罪する条、驕從この上あるべからず、この一事もて其余の暴虐を推して知るべしと厳命あり、又忠俊主を詰りて仰られけるは、汝幼弱にて讒訴に惑ひ、家臣兄弟の訴訟を決断すること能はずして此の如く来り訴へしめ、剰へ邪正を弁（わきま）えず讒者を助けんとするは、大国を封ずる器にあらずとて、忽ちに越後国四十五万石を没収し、奥州岩城に謫せられて鳥居左京亮（時に十万石）に預けられ、直清殿も罪せられて出羽の最上（今の山形）に配流され、最上出羽守義光（五十二万石）にあづけられ、（以下略）」<br /><br />　『堀家の歴史』では、直清と一向宗の争論とあった。『堀鉄団公記』では日蓮宗と浄土真宗の宗論を直清が裁いたとある。真相は分からないが、推測されるのは直清は寺社に対して締め付けを行っていて、直寄は寺社に対して融和的だったといふこと也。紫衣事件で罰せられた沢庵を直寄は自分の別邸に住まわせて赦免を求めたりしていた。この件は朝廷がらみではあるが、武家政権にとって別個に権力、組織を持つ朝廷や寺社の扱いといふのは常に悩みの種で、中世から武家は寺社領を横領して勢力を拡大してきた。一方で獲得した領土から一部を寺社に寄進している。中世比叡山は事実上独立国のやうだったといはれ、足利義教や織田信長が比叡山に大規模に攻撃をしたり、一向一揆が北陸で広がり、誰にも従わない集団が生まれたり。しかしその後の徳川幕府の寺社対策を見ると、引き締めの方策が採られているやうに感じるので、本来は直清の考え方は間違いでなかったのかもしれない。どうしてもこの機に改易したかったのだとおもふ。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（越後）</dc:subject>
<dc:date>2008-12-20T09:18:05+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>御兄弟の確執</title>
<description> 『堀鉄団公記』の御兄弟の確執を引用する。　「直政公御逝去の後、雅楽助直清殿は仔細なく家督を相続して監物と名のられ、鉄団公と共に幼弱なる越後守忠俊主の後見輔佐として国務を沙汰せられけるが、直清殿は出母同じからずとは云ひ、まさしく御弟なれば、鉄団公に向かっては常に謙抑礼譲せられるべきが情義なるに、己が惣領たるを恃みて、動もすれば驕恣の振舞を顕はし、毫も親しみ給はざりけるに、彼の御感状のいきさつありし以
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<![CDATA[ 『堀鉄団公記』の御兄弟の確執を引用する。<br /><br />　「直政公御逝去の後、雅楽助直清殿は仔細なく家督を相続して監物と名のられ、鉄団公と共に幼弱なる越後守忠俊主の後見輔佐として国務を沙汰せられけるが、直清殿は出母同じからずとは云ひ、まさしく御弟なれば、鉄団公に向かっては常に謙抑礼譲せられるべきが情義なるに、己が惣領たるを恃みて、動もすれば驕恣の振舞を顕はし、毫も親しみ給はざりけるに、彼の御感状のいきさつありし以来は、内心鉄団公を疎外したまふこと一層甚だしく、直政公は国中の仕置きは勿論、瑣細の事に至るまで大概鉄団公に御協議の上施行せられけるに直清殿は何事も心の儘に独断専行して朝令暮改の事共多く、随て賞罰正しからずして往々辜なき者をも誅罰せられたりしかば、怨嗟の声喧しきも意に介せられず、然るに勇万方正の御仁なれば、直清殿の御処置を黙視し兼ねて、詞を尽し諫め給ふ事数度なりしも、更に聴き入れらるゝ事なく、果ては面色変えて立腹し、口さかしき足下には対面の要なしとてすげなく座を立たれし事もしばしばなりければ、公は甚だ不快に思ひ居たまひしが、（以下略）」<br /><br />　直清の政治が一方的に間違っていたとはおもはれぬ。直政も負けん気が強く、争論で柴田佐渡守を改易したといふし、親良も病気で隠棲したといふが一説には直政と不和になったからといふ話もある。直政の血筋はさういふ傾向があるらしく、直清の曾孫にあたる新発田藩家老の堀政親にも次のような逸話が侍り（『新発田藩世臣譜』）。<br /><br />　「政親、加藤時春と同じく政事のことを聞しに、公の御前にて得失を論じ、互に色を変て争ふ事度々ありしに、公二人の媒となり給ふて御前を退し事ままあり。常に御用を談ずる時は互にあらさふゆへ仲あしかりもやなん見へしが、二人私に相対して説話の時は歓笑して介意なかりしといふ。」<br /><br />　政事の議論のときは熱くなる気質らしい。改易したがっていた幕府からしてみれば、御家騒動と断じて改易するには都合の良い事実を提供したといふことだらう。もしかしたら直清、直寄共に本心からどちらの政策が正しいか幕府に判断して欲しかったのかもしれない。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（越後）</dc:subject>
<dc:date>2008-12-14T08:03:58+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>堀豊前利政</title>
<description> 『堀鉄団公記』三条の合戦の後半部分を引用する。　「三条の城代堀豊前利政は大剛の士にて、昼夜の防戦不覚を取らず、堅固に城を持ちこたへけるが、七日には後詰の近付きしを見て思ひらく、寄手大軍なりと雖も数日の戦に疲れ果てつらん、殊に後詰の近付きたるにて、自然引心地も附きたらめ、是れぞ大利を得べき機会なりとて、八日の払暁に城門開き、山中兵右衛門尉、井口平兵衛、堀又兵衛、大野久兵衛、東方勘兵衛、堀定右衛門等、
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<![CDATA[ 『堀鉄団公記』三条の合戦の後半部分を引用する。<br /><br />　「三条の城代堀豊前利政は大剛の士にて、昼夜の防戦不覚を取らず、堅固に城を持ちこたへけるが、七日には後詰の近付きしを見て思ひらく、寄手大軍なりと雖も数日の戦に疲れ果てつらん、殊に後詰の近付きたるにて、自然引心地も附きたらめ、是れぞ大利を得べき機会なりとて、八日の払暁に城門開き、山中兵右衛門尉、井口平兵衛、堀又兵衛、大野久兵衛、東方勘兵衛、堀定右衛門等、二百余の精兵と突て出でしに寄手は思い寄らざりし事とて上を下へと騒ぎければ、山中兵右衛門尉は鳥毛の半月を立物としたる兜をかぶりて、真先に駈入りて、当るを幸ひ薙立つれば、一揆の物主安田平八郎定治、冑に金色燦爛たる御幣箱を前立としたるをかぶり、黒幌を掛けて渡合、一歩も退かじと挑み戦ひしに、しばし勝負も附かざるゆゑ互に槍を捨てムズと引組み、全身泥まみれになって格闘しける處へ、山中が郎党近藤半之允（後改山田）馳せ来りて安田の首を掻切る、堀又兵衛も敵将小田切兵庫と槍を合せ、兵庫の左の脇壺より右の脇壺へ突透し、倒る所を押へて首を取ければ一揆共周章狼狽して先きを争ひ逃げ行くを、大崎村まで追詰めて百十余人討取り、城下へ引入りて其旨雅楽助殿へ告げたりければ、雅楽殿大に悦び、一騎がけにて城中へ乗入らるれば、神子田政友も二百余にて栃尾の城より打て出て、一揆共之を聞て、今朝不覚の軍して敗走せし事よ、我等が大軍にては秀治始め村上、溝口一手に成って来るとも、などか軍に勝たざるべき、無念にも引きけるよとて、又も三条の城へ取詰めて攻め戦ひける。<br />　直政公は柏崎に滞陣して国中の様子を見給ひしに三条の城大敵に取囲まれ、雅楽助殿難儀に及ばるる由聞へしゆゑ、諸将を促し後詰せしめければ鉄団公は手勢五百余にて坂戸の城を打立たまひ、蔵王の城主美作守親良、青木山の城主柴田佐渡守勝全も人数を寄せ、村上溝口と東西より挟みて近付きければ、一揆共は兵糧は尽さぬ、後詰は近付きぬ、旁々勝利覚束なしとて、各小屋に火を掛け囲みを解きて陣払ひしたれば、雅楽助殿漸く心を安んじ、諸将を城中へ招き入れ、懇に来援の労を謝せられしが、諸将は各領内も心元なければとてそれぞれ兵を引きて帰城すれば雅楽助殿は此度安田を倒せし山中兵右衛門が抜群の武勇を感賞し、曾て直政公より拝領して秘蔵されし宇多国宗の短刀を与へられしとなり。」<br /><br />　「利政　豊前、生国同前（美濃）　<br />はじめ直政に属す、一族たるによよて奥田をあらため堀氏と号す、<br /><strong>慶長五年景勝謀反のとき信州川中島佐渡おもてそのほか方々にをひて粉骨の軍功をはげます、</strong><br />同十九年大坂御陣のとき、心操（こころばせ）をいたすによりてめしいだされ<br />大権現台徳院につかへたてまつる、<br />寛永九年より将軍家につかふまつり御つかひ番をつとむ、<br />同十五年三月十八日死す、歳六十四、法名道古、」（『寛永諸家系図伝』）<br /><br />　寛永系図、寛政家譜ともに堀豊前利政は一揆のとき川中島方面へ行っている。春日山から出兵したのだとおもふ。直清が城を空けたとき老臣の豊前利政がいたとか（前回引用箇所）、三条城で防戦していたといふ記述は、直清が逃げるくだりを挿入するためのものとおもふ。利政は直清の従兄弟なので老臣といふことはありえない。改易後直寄に世話になっていないやうなので、忠俊、直清に近い立場だったことが推定される。自力で千五百石の旗本になれり。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（越後）</dc:subject>
<dc:date>2008-11-24T11:42:50+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>歴史観について</title>
<description> 『堀鉄団公記』の三条の合戦の前半を引用する。　「さて又下倉、四日市の戦に敗退したる一揆共は八月三日に加坪澤へ集りて處々に放火し、其處より二里半程の蔵王城を攻め取らんと謀りければ、城主堀美作守親良（秀治主の弟、四萬石、内壱萬石は家人近藤織部佐重勝領せり）歩卒を遣つて十数人引捕へ、悉く磔殺しけるが、一揆はまた栃尾にも起りて、城主神子田八右衛門政友（一本基昌）を攻めしかば、親良また兵を発して赴き、援けし
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<![CDATA[ 『堀鉄団公記』の三条の合戦の前半を引用する。<br /><br />　「さて又下倉、四日市の戦に敗退したる一揆共は八月三日に加坪澤へ集りて處々に放火し、其處より二里半程の蔵王城を攻め取らんと謀りければ、城主堀美作守親良（秀治主の弟、四萬石、内壱萬石は家人近藤織部佐重勝領せり）歩卒を遣つて十数人引捕へ、悉く磔殺しけるが、一揆はまた栃尾にも起りて、城主神子田八右衛門政友（一本基昌）を攻めしかば、親良また兵を発して赴き、援けしめ、難なく撃退したりける。<br />　時に雅楽助（うたのすけ）直清殿は、三条の城におはしけるが、国中一揆起ると聞て、取籠められては叶ふまじと思はれけん、老臣奥田豊前守利政（七郎兵衛尉利宗の男）を残し置き、取る物も取り敢えず春日山へ退かければ、御父直政公大に怒り給ひ、此頃丹後は此地へ見廻りけるが、一揆起ると聞て急ぎ坂戸へ馳帰りしに、其方尚若年とは云ひながら、親を頼み居城を捨て来ること云ひ甲斐なき次第なり、誠に丹後は三十郎と申せし頃、太閤御覧なされ、面魂眼ざし徒者（ただもの）にてなし、我にくれよと上意にて、十四歳より御小姓に召出され、御意に叶ひ程なく諸大夫に仰付けられし、名大将の御眼力程恥かしきものはなし、己れ雅楽、日本一の不覚者よ、そこにて舌を噛み死ねかしと叱り給ひば、雅楽殿赤面して其座より馬に打乗り、三条を指して馳帰られけるに、（以下略）」<br /><br />普通に考えて、三条から春日山へ少数で移動するのは、城に残るより危険ではないかとおもふ。領民は上杉恩顧で、武士と農民の境がない時代。武装した農民がそこらにいて、直江兼続から戦に関する指令などもあったらしい。<br /><br />東洋学者ヘレン・ミアーズの言葉を引用する。<br />「神話は科学的には正しくなくても、詩的には正しいということができるからだ。神話は長い歴史を経て完成した日本文明の象徴にすぎない。歴史の中に神話を入れるということは、科学的史観に反するが、もともと日本は科学的方法というものをつくってこなかったのだ。<br />　<strong>日本人は科学者の方法論ではなく、芸術家や詩人の手法で伝統文化を発展させてきた。彼らは事実より感覚、象徴、直感を重視した</strong>。」<br /><br />　この直清の一連の行動が史実であったとはおもはれぬ。直政が直清を叱る際に出てくる直寄の逸話が重要で、この話を出し、直清に比較して直寄が非凡であったと際立たせるために設定されたものであるとおもふ。事実ではなくても詩的、物語的には正しいのだとおもふ。直寄家中の子達への教育効果もあったろう。我も含め現代人は「科学的手法」に慣れてしまっているから、事実でないものは軽視しがちであるが、詩的な効果と、科学的評価との両方で平衡を保つべきとおもふ。事実を羅列しただけの歴史などおもしろくもなんともないのであるから。それにしても直清の子孫（多分）がこの物語についてああだこうだいふ時代が来ることは物語を作ったひとも想像してなかったのではなかろうか。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（越後）</dc:subject>
<dc:date>2008-11-15T09:35:18+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>堀鉄団公記、奥田家の歴史</title>
<description> 『堀鉄団公記』は堀直寄の伝記也。昭和十三年、片桐道宇といふ人の手による。第二節　公の御家系を引用する。「（前略）其の後文明三年五月に至り、義敏朝倉氏と講和して其分国を譲りければ、将軍義政、敏景をして越前の守護たらしめしに、程なく甲斐氏は北荘（今の福井）於いて叛き、守護代斯波左衛門佐義雄（義敏の弟）を自害せしめ国中以ての外に騒動す。時に源三郎氏種大野におはせしが、此の危難を避けんため尾張の所領へと志
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<![CDATA[ 『堀鉄団公記』は堀直寄の伝記也。昭和十三年、片桐道宇といふ人の手による。第二節　公の御家系を引用する。<br /><br />「（前略）其の後文明三年五月に至り、義敏朝倉氏と講和して其分国を譲りければ、将軍義政、敏景をして越前の守護たらしめしに、程なく甲斐氏は北荘（今の福井）於いて叛き、守護代斯波左衛門佐義雄（義敏の弟）を自害せしめ国中以ての外に騒動す。時に<strong>源三郎氏種</strong>大野におはせしが、此の危難を避けんため尾張の所領へと志し、草行露宿して美濃国へ差掛られしに国主土岐左京大夫成頼、関をとざし道を扼して抑留したりければ、氏種心ならずも同国厚見郡の茜部に落着て憂き年月を送り、文明十一年八月二日（一本文明九年六月朔日）六十七歳にてうせられければ、尾張の所領悉く織田氏に押領せられぬ。<br />　氏種が子源三郎氏英（初め氏春、永正元年十月七日卒、年六十二）氏英が子民部直種（初め利種、永正十六年三月二十二日卒）其子三右衛門尉秀種（初め三郎満長、また満利、弘治三年九月五日卒、年五十四）父子相継で土岐家の爲め所々の軍に加はりて高名多かりしが、就中秀種は近江の佐々木家と合戦の時、身を挺して奮闘し、四ツ目結の定紋ある敵の旗を奪取りしを以て本紋は亀甲に花菱の處、更に四ツ目結の一箇を採りて家紋の一に加へらる、釘貫と云へるは是なりけり。<br />　一説に、秀種、実は義敏の孫なり、父<strong>三郎政敏</strong>、関東に下りて上杉家に頼り上州沼田にて討死す、時に秀種尚幼かりしを、母に抱かれて茜部へ落来りけるが、直種一生不犯にて子なかりしかば、秀種を撫育して世嗣とせらると云へり。<br />　是時に当り、天下の騒乱久しくして、足利家は全く政権を失ひ威令行はれず、海内分裂して統一する所なく、強豪の徒競い興りて互に相呑唾し闘争攻奪虚日なく、五教の道蕩然地を払い、生民塗炭に苦みしが、天文十一年、斎藤秀龍入道々三其主土岐頼芸を逐ふて美濃一国を簒奪しければ、秀種慨然として機に乗じ遠祖の業を興さんと欲し茜部の「さし屋敷」と云ふ所にさゝやかながら砦を構へて、<strong>薮田、鵜面等の地五百貫を領し</strong>、旧族古家を始め少しも豪俊の聞えある者には好みを結びて、貧を恵み飢を救ふを以て務とせられし程に近藤、河村、不破、小畠、伴、大野、谷、片岡、小川、速水、梅戸、川手、岡田、小泉、奥山、雑賀杯云へる人々心服してなづき親しむ、奥田家の発祥蓋しこゝに基きけるとぞ。（後略）」<br /><br />　正史と比較すると、まず義敏の弟に義雄といふ人はいない。義敏の次男にいる（『系図纂要』）。また斯波家の庶子が守護代をしたといふ記録はない。越前守護代は甲斐氏。<br />　氏種が美濃に滞在している間に、所領が織田家に押領されたとあるが、文明年間頃は織田家はまだ斯波家と行動を供にしていて、下克上して勝手なことをしている感じは見受けられない。『寛政重修諸家譜』の奥田秀種の項には、はじめ奥田に住み、のち茜部に移住したとあるので、このころまで、奥田は所領であったと推測される。<br />　<br />　秀種が領した薮田、鵜面といふのは、薮田は今の岐阜県庁のあるところ。鵜面は地図で確認できず。茜部の西隣に鶉（うずら）といふ地名があった。鵜は鶉の間違いではなかろうか。<br />　<br />　この本によれば秀種の父政敏は上州沼田で戦死したやう。なぜ関東に、とおもふ。京都は戦乱で荒れ果てていたし、越前、東海道は斯波家の敵、朝倉、今川がいる。近江は斯波家が大将となり、六角攻めをしている。こうしてみると独立して分家しようとすれば関東しかなかったのかも。あるいは、本家の意向で、上杉と組み、今川を挟み撃ちしようと送り込まれたのか。時期的には永正の乱か。上杉家の家督争いに乗じて、北条氏や越後長尾氏、上杉家執事の長尾氏が反旗を翻していた頃。調べたが沼田で合戦があったことを確認できなかった。越後と上野の境あたりで合戦があったやう。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>斯波氏（庶流）</dc:subject>
<dc:date>2008-10-25T09:53:23+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>奥田城と西溝口城</title>
<description> 奥田城「奥田村にあり織田大和守敏定の次男近江守定宗飯尾氏の子となり其の苗字を名のり当城に住す。武功しばしば重累し、永禄三年五月十八日当国鷲津の城にて戦死す。其子飯尾左馬助重宗当城を守る。其事蹟信長記、総見記、織田軍記等に見えたり。」『尾張名所図会』「附近はやや小高い畑になっており、堀の跡らしい溝もある。斯波義重の従弟満種の子持種が初代の城主となったのが清洲築城（一三七五）の頃といわれる。後年、織田
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<![CDATA[ <strong>奥田城</strong><br /><br />「奥田村にあり織田大和守敏定の次男近江守定宗飯尾氏の子となり其の苗字を名のり当城に住す。武功しばしば重累し、永禄三年五月十八日当国鷲津の城にて戦死す。其子飯尾左馬助重宗当城を守る。其事蹟信長記、総見記、織田軍記等に見えたり。」『尾張名所図会』<br /><br />「附近はやや小高い畑になっており、堀の跡らしい溝もある。斯波義重の従弟満種の子持種が初代の城主となったのが清洲築城（一三七五）の頃といわれる。後年、織田定宗が城主となり、養子として飯尾近江守と称した。桶狭間の役で戦死したため、子の重宗が継いだが、加賀に移るにおよび廃城となった。」『日本古城郭全集』<br /><br />　奥田城には桶狭間（一五六〇）の頃、飯尾定宗といふ人がいた。この定宗、織田敏定の次男とあるが、敏定は一四五〇生、一四九五没であるから年代が合わない。斯波家、奥田家と同じで、応仁の乱後の系図が一代抜けているのではないかとおもふ。敏定の孫のほうがしっくりくる。奥田秀種が美濃に移住した後に、飯尾定宗が入城したと推測しても無理がない。秀種は好んで移住したのだろうか、織田家に圧迫されて出ざるを得なかったのだろうか。<br /><br />　初代城主が斯波持種となっている。しかし一三七五といふ年代は満種（一三七六～一四二八）、持種（一四一三～七六）どちらにも当てはまらない。斯波家の庶流の城であったことは確認できる。持種は京と越前の問題で忙しかったので弟の氏種に任せたのだろう。氏種が初めて奥田を称した。奥田城跡は地形から奥田堀畑町の辺りと推測されるそう（『寺西申治考』）。<br /><br /><strong>西溝口城</strong><br /><br />「西溝口村にあり東西四十間南北二十六間、今民家布地となる。<strong>奥田蔵人</strong>のすみしよしいひ伝へたり。」『尾張志』<br /><br />「今も城山、坪之内の地名を伝える畑がそれである。城主は逸見彦左衛門勝政と称し、美濃大桑より移って溝口の姓を名のった。その子秀勝は信長、秀吉に仕えて累進し、慶長三年（一五九八）新発田六万石の城主となった。」『日本古城郭全集』<br /><br />奥田氏種、氏英のあざなは源三郎也。直種、秀種は三右衛門也。この奥田家以外にも奥田蔵人といふ人がいたやうなり。その後逸見勝政が移住してきたと推測される。美濃の大桑といへば斎藤道三に没落させられた土岐氏の拠点。逸見勝政は落ち延びてきたのだろうか。ならば奥田家も入れ替わりに美濃に落ち延びたのだろうか。国に居場所がなくなったもの同士であっちへ行ったりこっちへ行ったりしていて、空いた城があればそこに入り、再仕官していたと想像してみる。奥田蔵人も秀種と一緒に美濃に移住したのだろうか。新発田藩、椎谷藩の家臣に奥田氏がいた。直純、直政の家系以外に行動をともにしていた奥田氏がいたのかもしれない。<br /><br />参考文献は『稲沢市の古城・古址』　稲沢市史編纂室　1975　に収録。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>斯波氏（庶流）</dc:subject>
<dc:date>2008-09-07T10:10:46+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>下津城跡</title>
<description> 　先日稲沢市に行き、清洲城、下津城跡を見たり、図書館で史料を探したりした。ウィキペディアによると、下津城は尾張守護が今川氏の頃からあり、斯波義重が尾張守護になったときに守護所と定めたそう。守護は在京のため、守護代織田大和守の居城であったよう。「織田兵庫助敏広城址、下津（おりづ）村にあり、敏広は武衛家の軍将也。武衛家駿河の今川家と遠江の国境を論じて数度合戦す。敏広遠江に在陣の頃武衛家義廉と同義敏と家
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<![CDATA[ 　先日稲沢市に行き、清洲城、下津城跡を見たり、図書館で史料を探したりした。ウィキペディアによると、下津城は尾張守護が今川氏の頃からあり、斯波義重が尾張守護になったときに守護所と定めたそう。守護は在京のため、守護代織田大和守の居城であったよう。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-26.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080906084423.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-26.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080906084423.jpg" alt="下津城跡" border="0" /></a><br /><br />「織田兵庫助敏広城址、下津（おりづ）村にあり、敏広は武衛家の軍将也。武衛家駿河の今川家と遠江の国境を論じて数度合戦す。敏広遠江に在陣の頃武衛家義廉と同義敏と家督の争論より軍（いくさ）起り。尾張の軍兵を京都にのぼして軍せんとする事ありしかば敏広遠江の陣を払って帰国せしに、国中の浪人ども蜂起して下津の城を攻めんとせし事などありて、いかめしき構へなりしよしは文正記に見えたり。」『尾張名所図会』<br /><br />「永享四年九月将軍足利義教は、富士遊覧の往復ともに、この城で宿泊している。文正元年（一四六六）には尾張の浪人どもが、この城を攻めたこともある。文明八年<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%A5%C5%C4%C9%D2%C4%EA" class="tagword">織田敏定</a>のために焼かれて廃城となった。」『稲沢の史蹟と文化財』<br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%A5%C5%C4%C9%D2%B9%AD" class="tagword">織田敏広</a>は応仁の乱時、義廉につき西軍に属した。西軍が勢力を衰退させると義敏を支持した敏定に圧迫され、尾張国をニ分割する形で決着する。武衛家はこの尾張の政情や遠江領有問題などが引っかかり、越前回復の軍事行動ができず、戦国大名朝倉氏を誕生させることになるわけだ。<br /><br />上記の参考文献は『稲沢市の古城・古址』　稲沢市史編纂室　1975　に収録。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>斯波氏（武衛家）</dc:subject>
<dc:date>2008-09-06T08:51:56+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>堀重俊書状</title>
<description> 　堀重俊書状は美濃の郡上市白鳥町長瀧寺に寺領を寄進したもの。所領は浜松にあったやうで、上池川といふ地名は今はないが、下池川といふ地名が浜松城のすぐ北にあり、この近くだらう。白山信仰といふのがあり、東海地方を中心に信者がいたそう。また同じ内容の松平忠頼の書状もあるといふ。堀重俊寺領寄進状寫寄進申候白山領之事合拾石者、右於末代、相違有間敷候、但在所者、遠州濱松之内上池川ニ而、寄進申者也、仍如件、　慶長
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<![CDATA[ 　堀重俊書状は美濃の郡上市白鳥町長瀧寺に寺領を寄進したもの。所領は浜松にあったやうで、上池川といふ地名は今はないが、下池川といふ地名が浜松城のすぐ北にあり、この近くだらう。白山信仰といふのがあり、東海地方を中心に信者がいたそう。また同じ内容の松平忠頼の書状もあるといふ。<br /><br />堀重俊寺領寄進状寫<br /><br />寄進申候白山領之事<br />合拾石者、<br />右於末代、相違有間敷候、但在所者、遠州濱松之内<br />上池川ニ而、寄進申者也、仍如件、<br />　慶長六丑十一月廿三日<br />　　　　　　　　　堀勘兵衛<br />　　　　　　　　　　　　重俊<br />　長瀧寺<br />　　　一乗坊参<br /><br />　堀秀重の子には重俊といふ名の子はいない。勘兵衛といふ名で思い出すのは、徳川忠長に仕え、のちに新発田藩に来た秀重の六男三政。書状の慶長六年頃は浜松は松平忠頼が治めていたやう。徳川忠長の前は松平忠頼に仕えていたのだらうか。年齢は十代半ばくらいか。三政の子は重昌と重時といふ名で、なぜ重といふ字を付けたのかよく分からなかったが、最初重俊といふ名で、のちに三政と改めたのだとすると腑に落ちる。それにしても兄に利重がいるから、同じ兄弟で「とししげ」「しげとし」なんて名付け方も昔はあったんだな～と変な感じもする。<br />　堀三政の娘は主馬之助直正に嫁いでいるので、直正の子孫は三政の血も引いている。その三政の足跡にこんな形で触れることができて感無量也。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（江戸期以降）</dc:subject>
<dc:date>2008-07-21T07:58:09+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>堀秀重書状</title>
<description> 立政寺の堀七左衛門書状は堀太郎左衛門書状と同じ花押といふ注があり、堀秀重は七左衛門を名乗っていたこともあるやう也。詳細は解釈できなかったが、制札の件について書いてあるやう。堀七左衛門尉書状（折紙）當寺制札之儀、久太馳走候て相調遣候、連ゝ無御等閑事候て、別而疎意有間敷候者、尚、當以より可有傳進候間、不能委細候、恐ゝ謹言、　　　　　　　　堀七左衛門尉　　十二月十五日　　吉安（花押）　　　立政寺　　　　
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<![CDATA[ 立政寺の堀七左衛門書状は堀太郎左衛門書状と同じ花押といふ注があり、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%BD%C5" class="tagword">堀秀重</a>は七左衛門を名乗っていたこともあるやう也。詳細は解釈できなかったが、制札の件について書いてあるやう。<br /><br />堀七左衛門尉書状（折紙）<br /><br />當寺制札之儀、久太馳走候て相調遣候、連ゝ<br />無御等閑事候て、別而疎意有間敷候者、尚、<br />當以より可有傳進候間、不能委細候、恐ゝ謹言、<br />　　　　　　　　堀七左衛門尉<br />　　十二月十五日　　吉安（花押）<br />　　　立政寺<br />　　　　御同宿中<br />（付箋）「堀太郎左衛門吉安事」<br /><br />こちらは新年の挨拶と鳥を百匹いただいたことに対する謝辞、判銭の件を承ったといふ内容。<br /><br />堀太郎左衛門尉書状（折紙）<br /><br />如仰當春之御慶、萬ヽ目出度存候、仍爲御祝儀、<br />鳥目百疋送給候、喜悦之至候、誠ニ舊冬者其元御取乱<br />奉察候、隨而御判銭之儀承候、定而別儀有間敷候、<br />委細之段當以ニ申渡候間、則可被申入候、<br />恐惶謹言、<br />　　　　　　　　堀太郎左衛門尉<br />　　壬正月廿六日　　吉安（花押）<br />　　　立政寺<br />　　　　　御報<br />（付箋）「堀太郎左衛門吉安事」<br /><br />注：舊＝旧<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog91.fc2.com/k/kadenokouji/file/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（美濃、近江）</dc:subject>
<dc:date>2008-07-19T09:30:55+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>堀秀政書状</title>
<description> 立政寺の堀秀政書状は、織田信長へ立政寺から音信用の料紙が贈呈されたことへの謝辞を述べたもので、信長の副状として出されたもの。信長に五十帖、秀政に二十帖贈られたよう。織田信長黒印状爲音信料帋五十帖到来候、懇情喜悦之至候、猶、堀久太郎可申候也、謹言、　　　十月十六日　　黒印　　　　　　　立政寺堀秀政書状（折紙）上様江、料帋五十帖御進上候、令披露候處、御祝著之旨、以御書被仰出候、次私へ同貳十帖被懸御意候
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<![CDATA[ <strong>立政寺の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C0%AF" class="tagword">堀秀政</a>書状</strong>は、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%A5%C5%C4%BF%AE%C4%B9" class="tagword">織田信長</a>へ立政寺から音信用の料紙が贈呈されたことへの謝辞を述べたもので、信長の副状として出されたもの。信長に五十帖、秀政に二十帖贈られたよう。<br /><br /><a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%A5%C5%C4%BF%AE%C4%B9" class="tagword">織田信長</a>黒印状<br /><br />爲音信料帋五十帖到来候、懇情喜悦之至候、猶、<br />堀久太郎可申候也、謹言、<br />　　　十月十六日　　黒印<br />　　　　　　　立政寺<br /><br /><a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C0%AF" class="tagword">堀秀政</a>書状（折紙）<br /><br />上様江、料帋五十帖御進上候、令披露候處、御祝著之旨、<br />以御書被仰出候、次私へ同貳十帖被懸御意候、<br />御懇信喜悦之至候、委曲千光庵へ令申候之條、<br />不能細筆候、恐ゝ謹言、<br />　　　十月廿六日　　　　秀政（花押）<br />（奥切封ウハ書）<br />「              堀久太郎<br />   　立政寺　　　　　秀政」<br /><br /><strong>西圓寺の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C0%AF" class="tagword">堀秀政</a>書状</strong>は、詳細は解釈できなかったが、寺の高札に関して羽柴秀吉、丹羽長秀に相談して指示を仰いだような内容とおもはれる。大垣の代官とおもはれる谷屋宗左衛門尉といふひとに宛てている。<br /><br /><a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C0%AF" class="tagword">堀秀政</a>書状（折紙）<br /><br />對草道嶋西圓寺高札之事、羽柴筑前守・惟任五郎左衛門尉<br />御両人江申届候處、急度相調、可差越之旨候、<br />何時も、殊に先年之條、隨分不可有如在候、<br />被得其意、彼寺内へ可申遣候、恐ゝ謹言、<br />　　　　　　　　　　　　<br />　　　　　　　　　　　堀久太郎<br />　　　十ニ月十二日　　　　秀政（花押）<br /><br />　　　　谷屋宗左衛門尉殿<br /><br />注：帋＝紙<br />　　出典は『岐阜県史　史料編　古代・中世一』<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>堀秀政</dc:subject>
<dc:date>2008-06-21T17:24:11+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>茜部神社文書</title>
<description> 「大意」と「注」は吾の拙訳による。正しい読み、訳し方を知っている人は誤りがあったら指摘してほしい。　堀直政書状寫（折紙）（端書）「登第五號之九」　尚以、拝殿之儀、三間半ニ貳間、一段と可然と存候、　然者、右之材木并大工作料、萬ヽ何ほど入可申候、　書付重而被指越可給候、以上御状拝見申候、仍八幡宮拝殿指圖、被懸御意候、是非共、建立仕度存候、銀子何ほと入可申候哉、書付可給候、隨其馳走可申入候、誠被入御念、
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<![CDATA[ 「大意」と「注」は吾の拙訳による。正しい読み、訳し方を知っている人は誤りがあったら指摘してほしい。<br /><br />　<strong><a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%C4%BE%C0%AF" class="tagword">堀直政</a>書状寫（折紙）</strong><br /><br />（端書）<br />「登第五號之九」<br />　尚以、拝殿之儀、三間半ニ貳間、一段と可然と存候、<br />　然者、右之材木并大工作料、萬ヽ何ほど入可申候、<br />　書付重而被指越可給候、以上<br />御状拝見申候、仍八幡宮拝殿指圖、被懸御意候、<br />是非共、建立仕度存候、銀子何ほと入可申候哉、<br />書付可給候、隨其馳走可申入候、誠被入御念、別而<br />畏存候、將亦、爲御音信小刀二送給候、御懇志之段、<br />過分至極令存候、何樣從是、以使者萬ゝ可申述候、<br />恐ヽ謹言、<br />　　　　　　　　　　　堀監物<br />　　　六月二十三日　　　　直政（花押影）<br />　　　　森崎彦右衛門殿<br />　　　　　　　　　御返報<br /><br /><strong>大意</strong>「なお、拝殿の件ですが、三間半に二間、一段という形式がよいだろうと思っています。それならば、材木と大工の賃料、その他どのくらい必要になるでしょうか、書き付けて人をよこしてくれないでしょうか、以上」<br />　「御手紙拝見致しました。それによると八幡宮拝殿の指図、御気に懸けられているとのこと、ぜひとも建立したく思っております。お金はどれくらい要るでしょうか、書き付けてください。それにしたがって申し入れることにします。誠に念の入ったことにかしこまっております。はたまた、御手紙をよこすにあたり、小刀二本贈っていただき、ていねいな心遣い、身に余る思いです。いかようにもこれに従います、使者を以って申し述べてください。恐惶謹言、<br />六月二十三日　堀監物直政　森崎彦右衛門殿へのご返事」<br /><br />　<strong><a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%C4%BE%C0%AF" class="tagword">堀直政</a>書状寫（折紙）</strong><br />　　　　<br />　　　　（包紙ウハ書）<br />　　　　「(異筆)<br />　　　　　登第五號之八<br />　　　　　登第五之九」<br />　　　　　松平越後守殿<br />　　　　　堀監物殿状　貳通」<br /><br />　尚以、八幡宮御掃除以下、堅被仰付尤ニ存候、拙者身<br />　上も成立候者、是非共、造宮取立申度覚悟ニ候、以上<br />貴札拝見本望至存候、仍八幡宮於神前、無油断被成<br />御祈祷之由、忝次第共ニ候、將亦、神田之儀、<br />岐阜中納言樣へ御訴訟申上候處、内ゝ少分之儀者、<br />可有御扶持之由、被仰出候間、可被成其御心得候、<br />委儀彌五郎・甚八郎両人ニ申含候間、不能巨細候、<br />恐惶謹言、<br /><br />　　　七月廿九日　　　　直政（花押影）<br />（奥切封ウハ書）<br />「              堀監物<br />   　八幡<br />　　　　別當坊　　　　直政<br />　　　　　　御報　　　　　　」<br /><br /><strong>大意</strong>「なお、八幡宮御掃除以下のこと、固く仰せつけられたのはもっともに思います。拙者身上も成立ちましたらば、ぜひとも造宮を取立てしたい考えです、以上」<br />「あなたの札を拝見して、本望の至りに思います。それによると、八幡宮の神前において、油断なく御祈祷なされているとのこと、かたじけなき次第です。はたまた、社領の件ですが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%A5%C5%C4%BD%A8%BF%AE" class="tagword">織田秀信</a>様へ御訴訟申し上げましたところ、内々で少量の案件は、御扶持があるだろうとのこと、おっしゃっておりましたので、そのお考え（造宮）は成就されるでしょう。詳しくは、彌五郎、甚八郎の両人に申し付けておきましたので、細かくは書けませんが、恐惶謹言。<br />七月二十九日　直政　（注、八幡神社の別当坊への返事）」<br /><br /><strong>注：</strong><br />寫＝写、<br />號＝号、<br />并＝ならびに、<br />仍＝よりて（因）、<br />八幡宮＝<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B0%AB%C9%F4%BF%C0%BC%D2" class="tagword">茜部神社</a>のこと、全国の八幡神社のなかで十番目に古いそう（八三〇年頃建立）。<br />之儀＝～の件、こと、<br />仕度＝～したく、したき（申度＝もうしたく）、<br />被＝る、らる、<br />令＝しむ、さしむ、<br />者＝助詞の「～は、」、已然形を伴い「～ば」（然者＝しからば、候者＝さうらへば）<br />處＝処、<br />之由＝～とのこと、<br />忝＝かたじけなき、<br />將亦＝はたまた、<br />彌＝弥、<br />當＝当、<br />恐惶謹言＝きょうこうきんげん、手紙の結び文句、<br /><br />　直政が美濃の所領の行政仕事を担当していたことが伺われる。往復はがきのように、往信と返信がセットになっている書状のやう也。『岐阜県史』では慶長十五年ころと推定しているが、直政は慶長十三年に亡くなっているし、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%A5%C5%C4%BD%A8%BF%AE" class="tagword">織田秀信</a>は関ヶ原の合戦後改易されているので、堀家が越後に移る前後くらいの時期ではないかとおもふ。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（美濃、近江）</dc:subject>
<dc:date>2008-05-31T16:01:52+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>堀家のふるさと</title>
<description> 先日、念願の先祖の故郷へ訪れた。まず最初は奥田氏のルーツ、稲沢市に行き、国府宮神社に参拝。尾張国の国府があったと推定される土地。そこから一駅南の奥田へ行った。奥田はなにもない普通の町だった。無理もない、先祖が居たのは五百年以上前。そこから西にある性海寺に行った。室町時代に建てられたといふ塔など古い文化財がたくさんあり、先祖もこれを見たのだろうかと感慨にふける。そして、そこから下道で岐阜へ。木曽川を
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<![CDATA[ 先日、念願の先祖の故郷へ訪れた。まず最初は奥田氏のルーツ、稲沢市に行き、国府宮神社に参拝。尾張国の国府があったと推定される土地。そこから一駅南の奥田へ行った。奥田はなにもない普通の町だった。無理もない、先祖が居たのは五百年以上前。そこから西にある性海寺に行った。室町時代に建てられたといふ塔など古い文化財がたくさんあり、先祖もこれを見たのだろうかと感慨にふける。<br /><br />そして、そこから下道で岐阜へ。木曽川を越えて岐阜に入るとき妙に感動した。境川を越えてすぐのところに<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B0%AB%C9%F4%BF%C0%BC%D2" class="tagword">茜部神社</a>があり、昔は今の境川のあるところが濃尾の国境であったといふ。天正年間の洪水で今の木曽川の流れになり、濃尾国境も変更されたといふ。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B0%AB%C9%F4%BF%C0%BC%D2" class="tagword">茜部神社</a>に参拝。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B0%AB%C9%F4%BF%C0%BC%D2" class="tagword">茜部神社</a>の歴史の古さに驚く。神社の裏には土岐政房の墓があった。其の子らが家督をめぐってあらそふわけだ。<br /><a href="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080512203743.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080512203743.jpg" alt="茜部神社" border="0" /></a><br clear="all" /><br /><br />そこから北の茜部本郷へ行った。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C0%AF" class="tagword">堀秀政</a>顕彰碑に参り、比奈守神社に参拝。比奈守神社は秀政の碑から路地に入ってすぐのところ。近くにフルーツショップＨＯＲＩがあった。<br /><a href="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080512203848.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080512203848.jpg" alt="秀政顕彰碑" border="0" /></a><br clear="all" /><br /><a href="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080512203908.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080512203908.jpg" alt="比奈守神社" border="0" /></a><br clear="all" /><br />比奈守神社のやうな背の高く青々とした木々は見ていると気分が落ち着く。<br /><br />そして岐阜県立図書館へ。『岐阜県史』を調べて<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C0%AF" class="tagword">堀秀政</a>、直政、秀重の文書など収穫あり。『堀家覚え書き』を読む。系図は戦国時代まで所々誤りも見られるが、次木の初代の人の父が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%E1%C6%A3%C0%AF%C0%AE" class="tagword">近藤政成</a>といふのが興味深い。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%E1%C6%A3%C0%AF%C0%AE" class="tagword">近藤政成</a>の長男は旗本になり、飯田市の南部に領土があり、幼少の頃は伯父の堀親良が後見していた。弟がいたのだろうか。飯田市の歴史も調べたくなった。<br /><br />『岐阜県史　史料編　古代・中世一』に載っていた堀氏の史料は以下のもの。<br /><a href="http://blog.fc2.com/tag/%B0%AB%C9%F4%BF%C0%BC%D2" class="tagword">茜部神社</a>文書（岐阜市茜部）　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%C4%BE%C0%AF" class="tagword">堀直政</a>書状　二通<br />立政寺文書（岐阜市西荘）　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C0%AF" class="tagword">堀秀政</a>書状　堀七左衛門書状　堀太郎左衛門書状<br />西圓寺文書（大垣市草道嶋町）　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C0%AF" class="tagword">堀秀政</a>書状<br />石徹白文書（郡上郡白鳥町石徹白）　堀重俊書状<br />寶憧坊文書（郡上郡白鳥町長瀧）　堀重俊書状（石徹白文書と同じ内容）<br /><br />以後、順次紹介していこうとおもふ。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（美濃、近江）</dc:subject>
<dc:date>2008-05-18T11:51:43+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>貫高制と石高制</title>
<description> 『寛政重修諸家譜』奥田直純の「美濃国茜部のささ屋敷に小城をかまへ、五百貫文の地を領す、」の記述から五百貫文てどれくらいだろうとおもひ調べてみた。　貫高制は、ある田で収穫できる平均の米の量を通貨に換算したもので、鎌倉時代から戦国時代まで使われていたといふ。「貫」といふ単位は、質量では一貫＝千匁（もんめ）≒３．７５kg、通貨では一貫＝千文。ウィキペディアによれば、戦国時代の後北条氏の例で、田んぼは一段（
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<![CDATA[ 『寛政重修諸家譜』<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B1%FC%C5%C4%C4%BE%BD%E3" class="tagword">奥田直純</a>の「美濃国茜部のささ屋敷に小城をかまへ、五百貫文の地を領す、」の記述から五百貫文てどれくらいだろうとおもひ調べてみた。<br /><br />　貫高制は、ある田で収穫できる平均の米の量を通貨に換算したもので、鎌倉時代から戦国時代まで使われていたといふ。<strong>「貫」といふ単位は、質量では一貫＝千匁（もんめ）≒３．７５kg、通貨では一貫＝千文。</strong>ウィキペディアによれば、戦国時代の後北条氏の例で、田んぼは一段（たん）＝５００文、畑は一段＝１５０～２００文であったといふ。面積のほうはといふと、<strong>一町＝１０反（段と同じ）＝１００畝（歩と同じ）＝３０００坪で、一町は９９１７㎡で、ほぼ１万㎡</strong>とみなし、一町≒１ｈａとなり、明治時代メートル制への移行がわりとスムーズにいったらしい。<br /><br />「五百貫文」といふのは一億万みたいなもので、要は五百貫のこととおもふ。仮に領土が全て田んぼだとした場合、５００貫＝１０００反＝１００町≒１，０００，０００㎡＝１k㎡となる。実際は畑があったり、居住地があったり、耕作不適地があったりで、もうすこし広い範囲になるのかもしれない（畑は一貫＝５反以上になるため）。<br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%D0%B9%E2" class="tagword">石高</a>制は、米の収穫量を通貨には換算しない。<strong>一石＝１０斗＝１００升＝１０００合で、１合＝１８０cc、１升＝１．８&#8467;。そして米の通貨換算は１００文＝１斗２升～１斗４升</strong>であったといふ。つまり１貫＝１石２～４斗で、５００貫＝６００～７００石となる。貫高に×１．２～１．４で<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%D0%B9%E2" class="tagword">石高</a>に換算できると考えてよいとおもふ。<br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B1%FC%C5%C4%C4%BE%BD%E3" class="tagword">奥田直純</a>は六百石超を知行していて、その範囲は１k㎡強。そして<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%BD%C5" class="tagword">堀秀重</a>は二千石を知行していたといふから、その範囲は４k㎡強（２km四方）であったと推測される。そのやうにして見ていくと、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%BC%A3" class="tagword">堀秀治</a>の三十万石といふのも地図で距離を測ると、上越から三条の辺りの耕作できそうな平野の面積は確かに三十万石くらいで、昔の単位も検地、測量も割と正確だったことが分かる。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（美濃、近江）</dc:subject>
<dc:date>2008-05-16T19:29:44+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>会津藩の堀氏</title>
<description> 会津若松市立図書館によると、会津藩の堀氏は元々は小川勘兵衛（官兵衛？）といって、美濃の堀氏に仕えていたと言い伝えられ、正保年間に会津へ来藩し、一五〇〇石を賜ったといふ。正保年間といふと、堀直寄の村上藩が無嗣改易されてから五年くらいの時期で、直寄はよく家臣に堀氏を賜姓していたやうなので、吾は直寄の家臣だったのではないかと推測している。『慶応年間会津藩士人名録』には、堀半右衛門が一〇〇〇石で番頭、堀常
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<![CDATA[ 会津若松市立図書館によると、会津藩の堀氏は元々は小川勘兵衛（官兵衛？）といって、美濃の堀氏に仕えていたと言い伝えられ、正保年間に会津へ来藩し、一五〇〇石を賜ったといふ。正保年間といふと、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%C4%BE%B4%F3" class="tagword">堀直寄</a>の村上藩が無嗣改易されてから五年くらいの時期で、直寄はよく家臣に堀氏を賜姓していたやうなので、吾は直寄の家臣だったのではないかと推測している。<br /><br />『慶応年間会津藩士人名録』には、堀半右衛門が一〇〇〇石で番頭、堀常彦が三〇〇石で物頭とある。半右衛門が本家で常彦が割と早い時代に分知された家系とおもはれる。慶応年間に全部で十三家（推定）、十七人堀氏がいた。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>全国の堀氏</dc:subject>
<dc:date>2008-05-05T08:26:54+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>直政の子孫たち</title>
<description> 　先日、「からくりＴＶ」の商店街の企画で、群馬の藤岡市本通商店街が紹介されていたが、そこで蕎麦屋を営んでいる人が堀氏だった。創業一〇一年だそうで、店の看板には「丸に釘抜」の家紋があった。新発田藩か村松藩か椎谷藩の堀氏だろうか。直政の子孫であることはほぼ間違いないとおもふ。一〇一年前を想像してみるに、蕎麦屋の初代の父親はきっと明治維新で禄を失った士族で、越後から群馬に移住しそこで仕事を見つけたのでは
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<![CDATA[ 　先日、「からくりＴＶ」の商店街の企画で、<strong>群馬の藤岡市本通商店街</strong>が紹介されていたが、そこで蕎麦屋を営んでいる人が堀氏だった。創業一〇一年だそうで、店の看板には<strong>「丸に釘抜」の家紋</strong>があった。新発田藩か村松藩か椎谷藩の堀氏だろうか。直政の子孫であることはほぼ間違いないとおもふ。一〇一年前を想像してみるに、蕎麦屋の初代の父親はきっと明治維新で禄を失った士族で、越後から群馬に移住しそこで仕事を見つけたのではないだろうか。そして其の子が蕎麦屋を始めたのが明治四十年頃と。吾の母方の祖父の実家は新潟県刈羽郡の大工の棟梁だったのだが、よく群馬へ仕事をしにいっていたらしい。さういふ人の流れが明治期にあったやうなり。<br />　<br />　少し前、<strong>技能五輪</strong>が話題になっていた。左官部門で女性初のメダルを受賞したのは堀氏だった。彼女の実家は<strong>明治初期から五代続く左官屋の家系</strong>だそう。兄二人も国内の技能コンテストでメダルを取る腕前らしい。「がっちりマンデー」で特集していた。吾はこの家系も直政の子孫ではないかと推測している。この左官屋のあるところは<strong>新潟市の濁川（にごりかわ）</strong>といふところで、ここには堀氏が二十件以上集住していて、吾の本家もこの町の旧家也。この土地は新発田城下と新潟町のほぼ中間にあり、両地点を結ぶ旧国道七号があり、昔は新発田川と阿賀野川を渡河し通船川を通り沼垂、新潟へ出る水陸共交通の要所であったことから、新発田藩の堀氏であろうとおもふ。そして新発田藩の堀氏には直清の系と三政の系があるが、直清の六男の直正の血筋だけが子だくさんで、他の家系はたびたび他家から養子をもらったり、婿をもらったりしているので、濁川の堀氏は多くがこの直正の血筋であろうと考えている。<br /><br />　この二つの例に加えて、吾の親戚などを見ていると、職人、理系、工業系のひとが多い。どうも直政の血筋は職人気質で謹厳実直といふかんじで、商売などはあまり向いていないやう也。前出の蕎麦屋もレモンを練りこんだ蕎麦といふのを試作して不評だったシーンなどがあって、新奇なもの、大衆受けするものは不向きで、伝統を守り職人仕事に徹すべき血筋なのだろう。<br />　<br />　吾の曽祖父は万延元年（一八六〇）生まれで、隣町の大工のところへ就職した。祖父は大工を継がず、曾祖母がやっていた呉服屋を継いだ。おそらく曾祖母は商売が上手だったのだろうけれども、曾祖母が亡くなってからは厳しかったらしい。戦後、和服から洋服へシフトしたといふ時代の変わり目も影響しているのかも。伯父も機械の設計屋を営んでいたが、商売の話は苦手だったと言っていた。工場の自動化に貢献していたのだが、工場の労組が自動化反対！とかやっていて（人間がやっていた作業を自動化するから人員削減につながる）、機械はいいものが作れて経営側は興味を持っていたが、商売の話やら政治的な交渉などはまとまらず、といふこともあったらしい。吾も文系の某有名大学を出ておきながら、自己アピール苦手、営業苦手で、さまよった挙句産業機械メーカーのサービス業務に落ち着いた。名古屋に来たのも会社が製造業で、名古屋が一番景気が良くて忙しいから。工業系に落ち着いたのも血筋のなせる業か。<br /><br />　もしかしたら直政が秀政の与力に据えられたのも、能力は高いのに自分から前面に出る性格ではないのを周りが見ていて、自然とそういう配置になったのではなかろうか。そしてその地位に落ち着いたからこそ存分に能力を発揮できたと。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（江戸期以降）</dc:subject>
<dc:date>2008-04-29T09:07:45+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>近江国の堀氏</title>
<description> 『浅井三代記』七巻の「亮政宮澤を頼み為員を可討（うつべき）計略并（ならびに）堀能登守降参事」の後半部分を引用する（『改定史籍集覧　第六冊』所収。括弧内と句読点は吾が追加した）。　「かくて備前守（亮政）は七月二十一日、赤尾駿河守教政、井口弾正、大野木土佐守、三田村左衛門大夫を小谷の城に残し置、我身は三千五百余騎にて坂田郡へ働出、在々の侍共を押寄せ押寄せ攻め給ふに皆降人となりて會釋す。同月二十四日に門
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<![CDATA[ 『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%F5%B0%E6%BB%B0%C2%E5%B5%AD" class="tagword">浅井三代記</a>』七巻の「亮政宮澤を頼み為員を可討（うつべき）計略并（ならびに）堀能登守降参事」の後半部分を引用する（『改定史籍集覧　第六冊』所収。括弧内と句読点は吾が追加した）。<br /><br />　「かくて備前守（亮政）は七月二十一日、赤尾駿河守教政、井口弾正、大野木土佐守、三田村左衛門大夫を小谷の城に残し置、我身は三千五百余騎にて坂田郡へ働出、在々の侍共を押寄せ押寄せ攻め給ふに皆降人となりて會釋す。同月二十四日に<strong>門根村の城</strong>へ押寄たまふ。<strong>堀能登守は子息遠江守に両家老の樋口三郎兵衛、多良右近相添（あいそへ）山口へ出向ひ可防（ふせぐべし）と被申（もうされ）ければ、遠江守三百計りにて打て出、山口にてささへけり。</strong>もとより雙方山の切所なれば小勢なりと申せとも討破り可入（いるべく）様もなくして互に矢軍（やいくさ）して居たり。かかりける所に浅井大和守は赤尾孫三郎、海北善右衛門尉、雨森彌兵衛いさない二百騎計りの勢にて敵の城取の後の山へのひあかり、山のかさより大石を落し込ければ城中驚き騒動すること夥（おびただ）し。<strong>堀能登守は物馴れたる兵なれば走り廻りて下知しけるは、味方の兵共大手樋口が陣へ加りて防べし。後の敵に向ひ石にうたれて犬死すな、又後敵かさよりおとし来り城を攻ば其時は出向ひ可防。敵近づかざる先に出向ひうたるべからずとて追手の陣へ向ひける。</strong>斯て一両日が間息もくれずおめきさけんで攻ければ城中の兵残りすくなく落行く。能登守今はかなはじと思ひ、樋口多良を左右にして四百騎ばかり真黒になり寄手の陣へ駆込、敵を四方へ追払い城中へ引取、門をかためて防ぎければ、亮政心に思ひ給ふやう、<strong>此（この）堀は江北にて久しき家、其身も剛の者なれば討取事も不便なり</strong>と思ひ給ひ、今井肥前守、新庄駿河守（に）被仰付（おおせつけられ）&#22127;を入給へば、堀は不斜（なのめならず）悦びて子息小次郎を人質に出し、我身は一門召具し備前守殿の御前に伺候し御礼申上、以後忠節をはげますべしと悦ぶ事限りなし。備前守は其近辺の仕置等（を）今井肥前守、新庄駿河守に被仰付。則（すなわち）堀には本領無相違（そういなく）給はり佐和山表へ重（ね）て可攻寄とて同二十七日に小谷に帰城したまひけり。」<br /><br />　この戦は永正十五年（一五一八）七月のことで、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%F5%B0%E6%CE%BC%C0%AF" class="tagword">浅井亮政</a>（すけまさ）により、次々と江北の国人たちが攻め落とされて配下に組み入れられて行く過程の部分也。「討取事も不便なりと思ひ給ひ」の「不便」は難儀しそう、簡単にはいかなそう、と解釈すべきか。あるいは新発田藩の『世臣譜』に「不便」を「ふびん」と読ませている箇所があり、その読みだとすると、惜しんだ、哀れんだといふ解釈になる。堀能登守は別の箇所で頼貞、頼眞といふ諱があり、どちらかが誤植で、ネットで見る限り、現代語訳などでは頼貞を採用しているところが多い。子に遠江守がいて、家老に樋口氏がいることから<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C2%BC" class="tagword">堀秀村</a>の祖父とおもはれる。子には遠江守のほかに小次郎といふ人物がいることが分かる。そして堀能登守を投降させた新庄氏、今井氏といふのは坂田郡箕浦の国人で、『寛政重修諸家譜』<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C2%BC" class="tagword">堀秀村</a>の家譜には、<br /><br />「堀　はじめ新庄と称し、のちあらためて堀を家号とす、」<br />とあり、秀基―存村（ながむら、秀村と同一人物か）―秀信と来る系図で、秀信の項には、<br /><br />「秀信　実は新庄駿河守直頼が三男、近江国堀新庄今井の三家、実子なきときはたがひに三家のうちをして家督をつがしむ、よりて存村が養子となる、」とある。<br /><br />　近江国の堀氏は元々は新庄氏だった事が分かる。しかし、いつから堀氏にしたのかがよく分からない。戦国武鑑というサイトで新庄氏、今井氏を調べたら、藤原秀郷の後裔俊名が近江国新庄に土着し、新庄氏を称したといふ。そして室町幕府二代将軍義詮に仕えていて、その父遠俊も尊氏に仕えていたといふ。その遠俊の弟に今井氏の初代資俊がいる。秀郷流の系図（『近江町史』収録）では遠俊の五代前の時代に堀藤太俊成といふ人が居て、新庄、今井の祖は弟の俊平の血筋。この系図では堀氏がはじめ新庄と称していたといふ『寛政家譜』と矛盾するが、堀、新庄、今井が親密な間柄であることは納得できる。『太平記』の堀次郎は秀郷流なのだらうか。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%F5%B0%E6%CE%BC%C0%AF" class="tagword">浅井亮政</a>が「此（この）堀は江北にて久しき家、」と言っていることから、堀藤太の家系が『太平記』の堀次郎、戦国時代の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C2%BC" class="tagword">堀秀村</a>へと続くのだらう。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（美濃、近江）</dc:subject>
<dc:date>2008-04-27T08:51:39+09:00</dc:date>
<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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<title>春日山の思ひ出</title>
<description> 名古屋へ車で移動するに当たって、予行演習として上越へ行った。友人がちょうど上越に赴任しており、春日山を案内してもらった。高速で行けば途中休憩しても一時間半。長岡JCT過ぎて大積から米山あたりの景色は最高。友人の話では下道の8号も海沿いの景色が最高らしい。柏崎が観光客減少しているのは残念な話也。最初、直江津の福島城跡に行ってみようと思ったが、高速降りて道に迷い断念。wikipediaによると古城小学校の辺りに本
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<![CDATA[ 名古屋へ車で移動するに当たって、予行演習として上越へ行った。友人がちょうど上越に赴任しており、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%D5%C6%FC%BB%B3" class="tagword">春日山</a>を案内してもらった。高速で行けば途中休憩しても一時間半。長岡JCT過ぎて大積から米山あたりの景色は最高。友人の話では下道の8号も海沿いの景色が最高らしい。柏崎が観光客減少しているのは残念な話也。<br /><br />最初、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C4%BE%B9%BE%C4%C5" class="tagword">直江津</a>の福島城跡に行ってみようと思ったが、高速降りて道に迷い断念。wikipediaによると古城小学校の辺りに本丸があったと推定されるそう。地図で見ると海にすごく近くて、国府から東へ数キロ。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%C4%BE%C0%AF" class="tagword">堀直政</a>が商業の盛んな港町を造ろうとして、官の側からその方針を築城といふかたちではっきり打ち出していたのが想像されて、やはりただものではないとおもふ。これからは戦ではなく産業だといふ先見の明があったのだとおもふ。あるいは佐渡金山との交易の便を考えたのだらうか。<br /><br />昔の守護職は任地に赴くとまずその国の一ノ宮に参拝したといふ。それにならひ、上越に着き友人に会ったら、まず居多神社へ参拝し、国分寺へも参った。静かで神聖な空間だった。<br /><br />吾が監物堀を見たいと言ったので、友人が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%D5%C6%FC%BB%B3" class="tagword">春日山</a>城史跡広場へ案内してくれた。『堀家の歴史』が出版された昭和四十二年当時は遺構のみだったのが、復元されていて、<br />「現存していた土塁を壊さず、全体を覆うように盛土しました。堀の水際は、土があらわれないように<br />杭と板で土留めを施しています。高さは現存する部分から推測して、150cm盛土しました。」<br />「堀を発掘した際、薄い板がたくさん出土しました。土塁の上には塀があったのではないかと推測されましたが、大半が削平されていたので、柵をイメージして作られています。」（<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%D5%C6%FC%BB%B3" class="tagword">春日山</a>城史跡広場のパンフレットより）とのこと。<br /><a href="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/P1000069_convert_20080413104942.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/P1000069_convert_20080413104942.jpg" alt="監物堀" border="0" /></a><br clear="all" /><br /><br />史跡広場の「ものがたり館」は展示もビデオも上杉謙信ばかりで辟易した。越後人はみんな謙信が好きなのは吾も異論はないが。パンフレットにかろうじて、<br />「現在見られるような広大な城に整備されるのはずっと後のことで、上杉謙信・景勝と堀氏（16世紀後半）によるものと考えられています。」<br />と一行堀氏が出てくるのみ。監物堀の名前の由来が出てこない。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%C4%BE%C0%AF" class="tagword">堀直政</a>のあざなが監物だからといふのを知らないのか、それとも史料の裏づけがなく伝承のレベルでしかないから採用しなかったのか。他にも薬研堀（やげんぼり）といふ空堀跡もあって、これもおそらく誰かのあざなから取った名ではないかとおもふが、触れていない。<br /><br />「この城の特徴は、山城であることに加えて、屋敷や空堀が展開する山の裾野に、延長1.2kmに及ぶ堀と土塁で総構がつくられていることです。全国的にもめずらしく、大変貴重な遺跡といわれています。」（パンフレットより）<br />監物堀がそれほど貴重なものであるなら、堀家が上杉との戦に備えて造ったと思われる歴史についても触れるべき也。上杉景勝が織田軍に攻められたときに造られたにしては方角が違う。すくなくとも伝承の「監物」の名は<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%C4%BE%C0%AF" class="tagword">堀直政</a>から也。<br /><br />次に、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CE%D3%C0%F4%BB%FB" class="tagword">林泉寺</a>へ行った。入場料500円払い中へ入った。惣門といふ上杉謙信が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%D5%C6%FC%BB%B3" class="tagword">春日山</a>城から移築したといふ門があり、ちょうど冬囲いを外したばかりといふ日で、タイミングがよい。中へ入れば墓参りも自由のようで、早速<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%BD%A8%C0%AF" class="tagword">堀秀政</a>たちの墓のあるところへ。秀重、秀政、秀治の三基ある墓のうち、秀政の墓のみ少し奥で、向きも違うのだが、木陰や日の角度などもあるのか、秀政の墓のみ没年や法名がはっきり読めるが、秀重、秀治のは風化が著しく読めなかった。<br /><a href="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/P1000074_convert_20080413105136.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/P1000074_convert_20080413105136.jpg" alt="堀秀政公の御墓" border="0" /></a><br clear="all" /><br /><a href="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/P1000075_convert_20080413105311.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/P1000075_convert_20080413105311.jpg" alt="道哲" border="0" /></a><br clear="all" /><br /><br />ほかにも上杉謙信、長尾為景、能景（謙信の父と祖父）、松平家、榊原家の墓もあり、パンフレットに墓の地図がある上、墓の前に立て札があるので見つけやすい。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CE%D3%C0%F4%BB%FB" class="tagword">林泉寺</a>の宝物館には堀氏のものは、「丸に梅鉢」の家紋入りの膳と御椀があった。写真不可だったので説明書きは記憶頼みだが、「丸に梅」の家紋は菅原姓や太宰府天満宮の信奉者がこの家紋を用いた。斉藤道三が梅の家紋を用いていて、秀治公の四代前の利房のとき道三から拝領したと伝えられている、といふ趣旨だった。秀政は「三つ盛亀甲に花菱」だった気がする。替紋（メインは定紋、サブは替紋、複数家紋をもっていることも多い）だらうか。『寛政家譜』も秀政の家系は「三亀甲」とある。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CE%D3%C0%F4%BB%FB" class="tagword">林泉寺</a>は伝え聞いたままを残しているのだろうけれども、なんとなく腑に落ちず、『堀家の歴史』にあった秀政の嫁の実家の喜多嶋家が菅原姓で、といふ記述から、あの遺品は秀治、親良の母の嫁入り道具だったのはないかとおもふ。<br /><br /><a href="http://blogranking.fc2.com/rank/390600_1.html" ><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/k/a/d/kadenokouji/20080427063010.gif"style="border:0px;"></a><br /><br /><br /><a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_orange.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br />↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。<br /> ]]>
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<dc:subject>堀氏（越後）</dc:subject>
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<dc:creator>堀久太郎</dc:creator>
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