プロフィール

堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、愛知県在住29才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

カテゴリー

FC2カウンター

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

By FC2ブログ

Powered By FC2ブログ
ブログやるならFC2ブログ

たしなむべし。
歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。
斯波一族の逆襲「其の一」、堀直政
斯波家嫡流は尾張守護を残すのみとなり、其の尾張の実権も織田家に奪われり。庶流にあたる奥田家は秀種の代から尾張を離れ、美濃の土岐氏の家臣となれり。其の子直純は美濃の堀家の娘をめとり、堀家との縁ができし。堀家より堀秀政が出、織田信長の側近となれり。直純の子三右衛門政次は堀秀政の与力となり、堀家の家事を執行せり。のちの堀直政なり。秀政の働きぶりは別の機会に語るなり。若くして病に倒れ、その後も早世が相次ぎ、家康により改易されるため、のちの歴史に語られることが少なく侍るが、名人左衛門の異名を取りし秀政の活躍なしに、秀吉の天下はなきなり。

本能寺の変後、豊臣秀吉に仕え、明智光秀、秀満を討ち、柴田勝家と戦へり。この戦で堀直政は十文字の槍で勝家の馬印を奪ったと『寛政重修諸家譜』にある。この戦に勝ちて、堀秀政は勝家の所領越前北ノ庄を賜り、18万石の大名、与力と合わせ28万石となりし。直政は秀政の家老として、間接的に朝倉に奪われた先祖の土地越前を取り戻したり。

堀秀政亡き後、其の子秀治が幼きゆへ、秀吉は北ノ庄を召し上げようをおもへり。これに怒り、直政は、跡目を立てられずんば、使臣の罪なり、参りて御縁を汚さんと脅し、秀治の越前襲封を認めさせり。

堀秀政堀直政の歴史はまだまだ語り尽くせぬなり。戦国の影の功労者の歴史を追って語りたし。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村 歴史ブログへ

↑より多くの人に読まれるべしとおもふならクリックされたし。
さにあらずとおもはば捨て置くとも可なり。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

斯波一族の逆襲「其の二」、最上義光
戦国時代、最上家は庶流の独立性が強く、領内の統一もままならぬなり。十一代当主最上義光(よしあき)が出、庶流の上山氏、天童氏、東根氏らを家老の内応により討伐し、所領を平定せり。

すると西の庄内の大宝寺氏が最上領に侵攻、しかしこれも家老の内応により、大宝寺義氏を返り討ちにしたり。義氏の弟義興も討つが、其の養子義勝が実父本庄繁長(庄内と隣接する越後岩船郡の領主)の力を借り最上軍を破り、庄内は上杉領となれり。

天正十五年(1582年)、伊達政宗が最上氏と同族の大崎義隆を攻めたため、義光は大崎に援軍を送り、伊達軍を破る。伊達政宗が最上領に侵攻したため迎え撃つと、義光の妹で政宗の母である義姫が戦場に割って入り、どかぬため、和議を結ぶ。

豊臣秀次の側室であった娘の駒姫が秀次とともに秀吉に処刑されたため、徳川家康に接近せり。会津に移りし上杉氏とは庄内を巡って対立していたので、関ヶ原では東軍に属し、上杉と戦へり。奇しくも上杉に代わり越後に入りしは、堀秀治なり。家老の堀直政は直江兼続の策動による越後領内での一揆に悩まされており、堀家は豊臣恩顧なれど、上杉許すまじの思いと、前田利長が家康に付く意向であることから関ヶ原では東軍に属すなり。上杉遺民一揆については、項を改めつまびらかにしたし。地元新潟では直江兼続は英雄扱いなりしが、我一族には仇敵たり。

同族たる最上義光堀直政が奇しくも上杉憎しの思いで一致し、共に東軍に属し、家康から所領を安堵されるなり。堀家が改易されると堀直政の嫡男堀直清は最上義光のもとへ預けられり。

最上義光は結局一族を没落させた伊達とは決着をつけられぬままなりしが、奥州に最上ありと知らしめしなり。それにしても内応を多く成功させた義光の手腕といふのはいかようなものなりしや。にんじんをぶら下げただけでなびくものばかりではなかろうに。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村 歴史ブログへ

↑より多くの人に読まれるべしとおもふならクリックされたし。
さにあらずとおもはば捨て置くとも可なり。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

蜂須賀正種
 『古代氏族系譜集成 上巻』所収の系図と蜂須賀庄相伝によると(出典は『新田族譜』『百家系図稿』とある)、斯波持種には義敏の他に義孝という子がおり、其の子正種が蜂須賀家に婿入りしているといふ。斯波の血筋とはいへ、応仁の乱で越前を失い、庶流の大野家は地盤をなくしていたころであったろうから、婿入りの要請があったのだとしたら快諾したのではなかろうか。蜂須賀郷は現在の愛知県美和町にあり、稲沢市奥田と数キロしか離れていなく、親戚の奥田家とも近い(持種の弟氏種は応仁の乱以前に尾張奥田に分家している)。正種の弟種重は奥田郷に住んだといふ(ただしこの奥田郷は知多郡の奥田とあり、種重が奥田秀種に相当していて、さらに『系図纂要』では義孝の子は義縁と義信となっていて正種はいなく腑に落ちない面も多い。新田の家譜に詳しいが斯波の家譜にはあまり詳しくない人の手によるものか。採用できそうなのは斯波家から婿をもらったという伝承のみか)。
 
蜂須賀氏は正種の子正利のとき川並衆を率いていたといふ。美和町は木曽川からは離れていて、蜂須賀郷にいて川並衆を率いていたとは考えにくい。川並衆は一宮市から江南市辺りの濃尾国境を活動域としていたそうで、正利のときに蜂須賀郷から濃尾国境へ移住したものとおもはれる(『寛政家譜』には正利は「蜂須賀の里を領す」とあるのみ。正勝は初めから犬山の織田家に仕えているので正利の後半生に移住した可能性もあるが、史料の裏づけはない)。移住した側が現地の人々を従わせるといふのは、武力でなかったとしたら、権威ではないだらうか。ただの国人領主にはできない芸当ではなかろうか。そして奥田家も秀種のとき対岸の美濃の茜部に移住している。奥田秀種斯波義敏の孫、蜂須賀正利は義敏の弟義孝の孫だから同時代(成人したとき一五二〇年代)の人物也。この一致は非常に興味深い。

 秀種は土岐氏の家臣となり(『堀家の歴史』)、正利の子正勝は犬山織田家、岩倉織田家に仕えたり、美濃の斉藤氏の家臣になったりしたといふ。斯波武衛家が幕府に軍役を課せられたり、国内の権力争いで疲弊しておる現状から学んで、国境付近の独立性の強い勢力になろうとしたのだらうか。あるいは、武衛家が遠江奪還に専念するため(秀種が成人した頃は斯波義達は没し、遠江も失っていた)、庶流の奥田、蜂須賀に濃尾国境の緩衝勢力となるよう指示したのだらうか。

 奥田家は美濃の堀家から嫁をもらう。また、秀政の妹で秀重の長女は生駒讃岐守一正に嫁いでいる。生駒家の地盤は江南市役所と岩倉市役所の中間に辺りにある「小折」といふところらしい。応仁の乱で奈良の生駒から移住し、馬借を生業とし、財を成し力を蓄えたそう。生駒家は蜂須賀とも縁戚。木曽川を隔てた両岸で交流があったことが伺はれる。

堀秀重は織田信長に仕え、奥田直純は斉藤義龍に仕えた。姻戚同士でもどちらが生き残っても家が守られるように仕官先を別にしている。のちに直純も織田家に仕え、この地域の覇者は信長になるだろうと見通しが立ったやうなり。このころには蜂須賀正勝も織田家に仕えていたのではなかろうか。そして正勝は秀吉に仕え、大名となる。

 蜂須賀家の家譜で信憑性が高いのは正利からであるといふ。だから蜂須賀が本当に斯波の血筋かどうかは分からない。しかし、吾は前述のとおり、斯波家の視点から見ると、尾張の一国人領主の婿になる必然性があったやうにおもふ。地盤を失ったこと、親戚の奥田家が近いことが状況証拠となりうるかとおもふ。濃尾国境に移住したと思われる時期が近いことは、血筋はともかく、互いに連絡を取り合っていたのかと思わせる。ちなみに、奥田と蜂須賀の中間辺りに西溝口といふ地名があり、溝口秀勝はここの出身のやうなり。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村 歴史ブログへ
↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。


奥田秀種に至る系譜
 「(前段略)義種が男民部少輔(はじめ左衛門佐)満種応永三十四年七月七日死す、年五十二、その長男民部大輔持種、三男源三郎氏種尾張国中嶋郡奥田城(或端の城ともいふ)に住し、これより奥田と称す、文明十一年八月二日死す、年六十七、法名道仙、其男源三郎氏英(或氏春)永正元年十月七日死す、年六十二、法名道念、其男民部(はじめ三右衛門)直種(或利種)永正十六年三月二十二日死す、法名道権、其養子三右衛門秀種(初三郎満長或満利)実は斯波三郎政敏が子なり、(政敏は民部大輔満種が長男、民部大輔持種が男左兵衛督義敏が子なり。)弘治三年九月五日死す、年五十四、法名道有、其男を七郎五郎直純とし、監物直政がとき、藤原氏となり堀を称すといふ、」
「某 三右衛門尾張国奥田に住し、のち美濃の茜部にうつり、近江国においてしばしば戦場にのぞみ、高名をあらはす、」(『寛政重修諸家譜』、以下『寛政家譜』)

「某 奥田三右衛門尉、 斯波民部少輔満種の苗裔なり、尾州奥田に住す、このゆへに奥田をもつて称号とす、そののち濃州赤鍋に居し、江州にをひて数度高名す、時の人のしれる所なり、」(『寛永諸家系図伝』)
 
「(前段略)このうち三男に当る源三郎氏種は、始めて尾張国中島郡奥田庄を領し、この地名により、斯波氏を、奥田氏と改めた。氏種の玄孫三右衛門秀種は、実は斯波治部大輔義敏の子で、奥田氏の養子となり、いつの頃か美濃国土岐家の家臣となって、近江源氏佐々木家との合戦のみぎり、「四ツ目結び」の定紋の旗指物を奪い取り、本紋は「亀甲に花菱」のところ、さらに「四ツ目結び」の一箇を取って家紋のひとつに加え、「釘貫」と称した。」(『堀家の歴史』)
 
 『寛政家譜』では義敏―政敏―秀種という血筋で、奥田家は氏種―氏英―直種の三代。『堀家の歴史』では義敏の子が秀種となり、奥田家は「氏種の玄孫」とあることから、氏種―氏春―春種―利種の次に秀種がくる家譜を採用しているとおもはれる。また『系図纂要』が氏種を持種の三男としていたが、生没年からいって、満種の三男で持種の弟が正しい。例によって括弧内の文は註のようなかたちで小さく書かれている部分。

 秀種が義敏の子であるとすると、義敏が五十八才の時の子となり、義敏は生きてはいるが、無理があるとおもふ。政敏がいたとおもはれる状況証拠としては、堀直政の初めの名が奥田三右衛門政次であること也(直政は次男だから「次」)。直純が祖父の名から取ったのだとおもふ。何の脈絡もなく「政」の字がでてくるといふのは昔の武家ではあまりないやうにおもふ。嫡流の『続群書類従』所収の「武衛系図」でも義良(斯波義寛)の次に津川義近(斯波義銀)と津川義冬がいて、義達、義統がいない。いるはずの人がいない系図といふのが、応仁の乱後から戦国中期にはあるやうなり。この「武衛系図」には政敏はいない。『寛政家譜』のほうが正しいとおもふ。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村 歴史ブログへ
↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。


斯波氏と柴田勝家
 柴田勝家の先祖は鑁阿寺(ばんなじ)にある『新田足利両家系図』によると、斯波義勝に始まり、勝重、勝義、勝家と来る血筋で尾張国上社村(名古屋市名東区)を領したといふ。『系図纂要』には斯波義勝といふ名はないが、斯波義寛(一四五七年生)の弟に義雄がいて、読みが同じ「よしかつ」也。奥田家や奥田之堀の系図を見ていると、昔の人は読みに比べると漢字には頓着しない、あるいは正確なところが伝わりきっていない感を受ける。例えば利と敏、正と政、などが文の各所や代ごとで混用されていたりする。そこから義勝が義雄と同一人物だと仮定すると、柴田勝家がその曾孫であるといふのは年代的には無理がない。しかし前出『系図纂要』では義雄には義虎といふ子がいて、武衛家の義統が織田信友に殺されたとき共に殺されたといふ。他には義虎の弟に存意といふ出家した人がいるのみ。

 こうしてみると柴田氏が斯波の流れである可能性が薄い感じもするが、他の状況証拠を探してみると、『系図纂要』には斯波義統の弟(あるいは次男?しかし孫が三方ヶ原で四十二歳で戦死したとあり、年代的に弟か、それでも無理があるか?)に牧義長といふ人がいて、その長男の長義は春日井郡川村城主、次男の長治は長湫(長久手)城主になっている。想像を膨らませると、武衛家が東の守りに柴田氏、牧氏を配し、西北の守りに奥田、蜂須賀を配したのではないかとおもふ。別に血筋でなくても家臣をそのように配した可能性もある。織田信長が柴田勝家は斯波の血筋という認識で斯波家の悲願だった越前を勝家に与えたとすれば物語としては魅力的だが。若狭の高浜を領していた逸見駿河守が没したとき、溝口秀勝は溝口氏が逸見氏の庶流に当たるといふ理由で高浜五千石を賜ったといふ。武家が氏族の流れといふのを意識していたといふのが伺われる逸話也。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村 歴史ブログへ
↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。


奥田城と西溝口城
奥田城

「奥田村にあり織田大和守敏定の次男近江守定宗飯尾氏の子となり其の苗字を名のり当城に住す。武功しばしば重累し、永禄三年五月十八日当国鷲津の城にて戦死す。其子飯尾左馬助重宗当城を守る。其事蹟信長記、総見記、織田軍記等に見えたり。」『尾張名所図会』

「附近はやや小高い畑になっており、堀の跡らしい溝もある。斯波義重の従弟満種の子持種が初代の城主となったのが清洲築城(一三七五)の頃といわれる。後年、織田定宗が城主となり、養子として飯尾近江守と称した。桶狭間の役で戦死したため、子の重宗が継いだが、加賀に移るにおよび廃城となった。」『日本古城郭全集』

 奥田城には桶狭間(一五六〇)の頃、飯尾定宗といふ人がいた。この定宗、織田敏定の次男とあるが、敏定は一四五〇生、一四九五没であるから年代が合わない。斯波家、奥田家と同じで、応仁の乱後の系図が一代抜けているのではないかとおもふ。敏定の孫のほうがしっくりくる。奥田秀種が美濃に移住した後に、飯尾定宗が入城したと推測しても無理がない。秀種は好んで移住したのだろうか、織田家に圧迫されて出ざるを得なかったのだろうか。

 初代城主が斯波持種となっている。しかし一三七五といふ年代は満種(一三七六〜一四二八)、持種(一四一三〜七六)どちらにも当てはまらない。斯波家の庶流の城であったことは確認できる。持種は京と越前の問題で忙しかったので弟の氏種に任せたのだろう。氏種が初めて奥田を称した。奥田城跡は地形から奥田堀畑町の辺りと推測されるそう(『寺西申治考』)。

西溝口城

「西溝口村にあり東西四十間南北二十六間、今民家布地となる。奥田蔵人のすみしよしいひ伝へたり。」『尾張志』

「今も城山、坪之内の地名を伝える畑がそれである。城主は逸見彦左衛門勝政と称し、美濃大桑より移って溝口の姓を名のった。その子秀勝は信長、秀吉に仕えて累進し、慶長三年(一五九八)新発田六万石の城主となった。」『日本古城郭全集』

奥田氏種、氏英のあざなは源三郎也。直種、秀種は三右衛門也。この奥田家以外にも奥田蔵人といふ人がいたやうなり。その後逸見勝政が移住してきたと推測される。美濃の大桑といへば斎藤道三に没落させられた土岐氏の拠点。逸見勝政は落ち延びてきたのだろうか。ならば奥田家も入れ替わりに美濃に落ち延びたのだろうか。国に居場所がなくなったもの同士であっちへ行ったりこっちへ行ったりしていて、空いた城があればそこに入り、再仕官していたと想像してみる。奥田蔵人も秀種と一緒に美濃に移住したのだろうか。新発田藩、椎谷藩の家臣に奥田氏がいた。直純、直政の家系以外に行動をともにしていた奥田氏がいたのかもしれない。

参考文献は『稲沢市の古城・古址』 稲沢市史編纂室 1975 に収録。



にほんブログ村 歴史ブログへ
↑一押しされたし。其の一押しが力となり、あたらしきものがうまれる。


テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術