プロフィール

堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、愛知県在住29才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

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たしなむべし。
歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。
我一族の歴史
我は藤原氏利仁流堀氏なり。其の先祖、斯波高経の五男で斯波義将の弟義種の血筋なり。室町時代、義将の嫡流は武衛(ぶえい)家と呼ばれ、庶流の義種は大野家と呼ばれし。義種、満種、持種、ときてこのころ武衛家で当主の早世が相次いだため、持種の子が義敏として武衛家を相続せり。義敏は応仁の乱の当事者なり。

義敏の庶子に三郎政敏といふものがおり、其の子秀種が大野家のさらに庶流に当たる奥田家を相続し、奥田秀種といった。其の子奥田直純は斎藤道三の家臣堀掃部大夫の娘を娶りぬ。其の子奥田三右衛門政次が従兄弟の堀秀政と共に織田信長に仕へり。堀家の家老として忠勤に励み、秀政より堀氏を賜り堀直次、さらに直政と改め、藤原姓となりき。我は堀直政の嫡男堀直清と堀秀政の次女芳修院との間の子らで、越後新発田藩の家老の家系の分家なり。

斯波氏、堀氏は日本史といふ大きなくくりでは脇役、端役なり。しかしながら、才に優れ、品行方正なもの多し。未だ語られぬ歴史を我が語り継ぎたし。

wikipedia堀秀政、堀直政、堀直寄などは、大半は我が堀五郎右衛門の名で編集せり。参照されたし。


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斯波氏の一門
斯波氏が歴史の表舞台に登場するのは、南北朝動乱で斯波高経が功を上げ、足利将軍家の執事となりしからなり。本来血筋は斯波家が足利氏の嫡流で、足利尊氏は庶流に当たるのだが、その辺は別の機会に。

斯波高経には五人の男子がありし。家長、氏経、氏頼、義将、義種なり。この五人は、勅撰集たる『新後拾遺和歌集』に和歌が選集されり。機会を見て披露したし。家長は奥州探題に、氏経は九州探題に、氏頼は僧籍に、義将は管領に、義種は加賀国守護となりにけり。氏頼の系統は不明になりし。義将の血筋は四代で絶え、その家系は、義種の血筋が継ぎし。家長は十七で北条高時の為に自害したといふ。中先代の乱のときであらうか。史料によっては北畠顕家に敗れ討死したといふものも侍り。氏経の家系から末野氏がいづ。

斯波高経の弟に家兼といふものあり、奥州探題を継ぎ、大崎氏の祖となれり。大崎氏から分家した最上氏は羽州探題となれり。大崎氏は伊達稙宗に下克上されり。奥州斯波氏は地元の熱心な研究者がおり、歴史がつまびらかにされており、喜ばしい限りなり。最上氏の分家に山野辺氏があり、水戸藩の家老なり。

同じ時代、越前、尾張、遠江の守護であった義種の子孫は、越前を朝倉敏景に下克上され、今川に遠江をうばわるる。尾張守護家には斯波義銀、弟らに毛利秀頼(蜂屋賢入か)、津川義冬がおり、織田信長の家臣にくわしいひとは聞きし名であらう。斯波義銀はのちに津川義近と改めたらしい。其の子に津田義忠(或は正勝)と津川近利がおり、義忠は加賀藩家老となり、末裔は明治に斯波氏に復姓したといふ。近利は熊本藩士となったといふ。また、分家に尾張国中島郡奥田庄の奥田家があり、奥田直純の弟の種房の家系に忠高がおり、大和国の一郡を領し、直純の子は堀氏となりき。柴田勝家の柴田氏も斯波氏庶流といいつたふ。斯波持種の孫が蜂須賀家に婿入りし、蜂須賀正種といった。正勝の祖父であるといふ。

かやうにしてみるに、斯波氏、津川氏、奥田氏、堀氏、蜂須賀氏、柴田氏、大崎氏、最上氏、末野氏、山野辺氏は斯波氏の一門なり。江戸時代に同族同士で不思議と縁があるなり。其の話もいづれせん。

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斯波家の起こり
足利家と斯波家の別れたるは、足利家の祖で、八幡太郎義家の孫義康から数えて五代目、頼氏と家氏のときなり。家氏が嫡男で、頼氏は三男たりしが、其の母の実家は、家氏が北条家庶流の名越氏で、頼氏は北条得宗家たるゆえ、幕府への影響力を考慮して、頼氏に家督を相続させり。家氏は陸奥国紫波郡に土着し、斯波氏を称せり。

南北朝の動乱の際には、斯波高経は越前で新田義貞を討ち、高経の嫡男家長は奥州総大将となり、北畠顕家と戦ふとつたえきこゆ。その後、尊氏と直義の兄弟相克で観応の擾乱が起こりしとき、斯波家は尊氏に付き功を挙げる。ちなみに吉良家は足利一門のうち斯波家にもおとらぬ家格なりしが、この戦に直義側に付いた為、室町幕府の中枢には入れず、しかしそれがゆへに斯波家のように没落の憂き目を見ずにすみ、江戸時代に高家に列せらるるなり。

この観応の擾乱で、足利家は執事の高氏一族を滅亡させ、さらに仁木義長、細川清氏も失脚させられしゆへに、二代将軍義詮は新たな執事に斯波高経の三男氏頼を指名せり。高経は執事になる事は臣下となる事を意味するというふことで最初は固辞したが、のちに引き受けることにし、氏頼ではなく、寵愛していた四男の義将を擁立し、後見役となれり。政権中枢に入りしことと、家格の高さから、足利将軍家に継ぐ地位を得たり。

斯波家の本拠地は建武の新政で賜りし越前国となれり。尾張国は鎌倉時代からの領国で、他の国の守護はそれからしばらくし、管領として義将と其の子義重が権勢を奮いしからなり。庶流の大野家は越前大野郡を本拠とせし。越前織田郡が織田家の発祥の地で、織田家は斯波家の被官となり、のちに尾張守護代となる。斯波家の被官は織田家のほかに、甲斐家、堀江家、二宮家、朝倉家などが侍り。特に甲斐家、朝倉家、織田家は斯波氏の没落に大きく関わるなり。


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斯波家の没落
斯波義将、義重の二代は管領として大いに活躍せり。しかし、四代将軍足利義持の時代に寺社本所領保護政策が推進され、それにより斯波家が窮乏したといふ。また、地方との交渉が取次を務める幕閣により分担され(細川氏、伊勢氏はこれにより台頭する)、政策決定も大名による評定会議、それも畠山満家、山名時煕が宿老として重んじられ、さらに、どの大名に意見を聞くかといふのを内々に差配していたのが三宝院満済といふ権力構造なりし。かやうに形骸化した管領職で公式行事に駆り出され多額の出費をし、訴訟事務などを背負わされるなり。

義重の子義淳は管領に就任するときも頑なに固辞し、就任しても在京の負担に耐えかねて越前下国未遂事件を起こすありさまなり。畠山満家も管領就任を嫌がりし。こは足利将軍家が管領の権力をそぐために多くの負担を強いたものと考えられるなり。一方で、公武の一体化が進み、幕府が武士のための政権ではなくなってきていたといふ指摘もあるなり。

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下克上、応仁の乱
義淳が早世、跡を継いだ弟の義郷も早世、其の子義健の幼少のころ、政務を補佐するため庶流に当たる、越前大野家の斯波持種と、守護代の甲斐常治(じょうち)が「被官人ら評定」を主導せり。文安四年(1447年)、持種派の被官数十人が甲斐常治の襲撃を企てるなど、激しく対立せり。

しかし、義健も享徳元年(1452年)、18歳で早世せしかば、持種の嫡男義敏が家督を相続せり。ここに至り、評定内の対立から主従の対立に変化せし。この主従対立をながらへさせたるは、将軍足利義政の甲斐常治への支援なり。斯波家の被官らは他国の守護代よりも一段上の破格の待遇を受けり。甲斐氏は四代義持時代、唯一将軍家の定例的な御成りがおこなわれていたり、恩賞なども斯波家を通さず頭越しに直接将軍から賜りし。足利将軍家が斯波家を警戒していたがゆへなり。

つまり、下克上の起こりは将軍家の主導なり。伊勢盛時(北条早雲)が下克上も、将軍義尚と意思疎通が侍り、今川の軍事力を借りて関東を平定せしものなり。奥州伊達稙宗が大崎氏を下克上せしも、奥州国人らの独立性を高めておいた将軍家の伏線が侍るなり。

越前に話を戻すと、義敏は甲斐常治と戦をたたかヘり。義敏に味方せしは、堀江利真、二宮氏ら、敵対せしは、朝倉敏景、織田家なり。しかし関東平定の命を受けて徴兵した部隊を甲斐氏攻撃に用い、将軍の逆鱗に触れ、義敏は大内氏のもとへ身を寄せる。家督は息子の松王丸が2歳で継ぐ。それにしても国許が不穏なりし時、関東へ行けとは将軍義政の斯波家を没落させんとする作為に満ちた指令なり。命に従い関東へ行ったなら、おそらく帰るところはなくなっていたであろう。

足利義政は応仁の乱の際、能に興じて政治に無関心であったような描かれ方が多いが、有力者を没落せんとして、互いに争わせていた策士であったとおもふ。其の指南役は伊勢貞親といわれ、『応仁記』では散々に叩かれている。

その後、足利一門の渋川家から、渋川義廉が養子に入り、斯波義廉(よしかど)として一旦は家督を継ぐが、義敏がのちに許され越前に帰国せしかば、家督争いが起きにけり。この措置は伊勢貞親の助言によるものと、義敏が細川勝元に接近し復帰工作を試みしゆへなり。応仁の乱が勃発すると、義敏は東軍に、義廉は西軍に付きたたかへり。のちの家督継承を見ると、義敏が勝ちたりしが、越前は甲斐常治の跡を継いだ朝倉敏景に奪わるる。このころ織田家はすでに尾張国守護代だったやうなり。斯波家の拠点は尾張に移るが、実権は織田家にありし。

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下津城跡
 先日稲沢市に行き、清洲城、下津城跡を見たり、図書館で史料を探したりした。ウィキペディアによると、下津城は尾張守護が今川氏の頃からあり、斯波義重が尾張守護になったときに守護所と定めたそう。守護は在京のため、守護代織田大和守の居城であったよう。

下津城跡

「織田兵庫助敏広城址、下津(おりづ)村にあり、敏広は武衛家の軍将也。武衛家駿河の今川家と遠江の国境を論じて数度合戦す。敏広遠江に在陣の頃武衛家義廉と同義敏と家督の争論より軍(いくさ)起り。尾張の軍兵を京都にのぼして軍せんとする事ありしかば敏広遠江の陣を払って帰国せしに、国中の浪人ども蜂起して下津の城を攻めんとせし事などありて、いかめしき構へなりしよしは文正記に見えたり。」『尾張名所図会』

「永享四年九月将軍足利義教は、富士遊覧の往復ともに、この城で宿泊している。文正元年(一四六六)には尾張の浪人どもが、この城を攻めたこともある。文明八年織田敏定のために焼かれて廃城となった。」『稲沢の史蹟と文化財』

 織田敏広は応仁の乱時、義廉につき西軍に属した。西軍が勢力を衰退させると義敏を支持した敏定に圧迫され、尾張国をニ分割する形で決着する。武衛家はこの尾張の政情や遠江領有問題などが引っかかり、越前回復の軍事行動ができず、戦国大名朝倉氏を誕生させることになるわけだ。

上記の参考文献は『稲沢市の古城・古址』 稲沢市史編纂室 1975 に収録。



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