プロフィール

堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、愛知県在住29才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

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たしなむべし。
歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。
改易後の進路
改易後の堀家の人々を追って見たいとおもふ。

秀治の嫡男忠俊は磐城の鳥居忠政のもとへあづけられ、彼の地で二十六歳で亡くなれり。忠俊には子があり、季俊(すえとし)といへり。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政家譜』)には、「七郎兵衛、松平筑前守の家人となる、」とあり、松平筑前守とは前田利常の事也。加賀藩士となれり。秀治の次男鶴千代は早世、三男は季郷(すえさと)といい、『寛政家譜』に、「三郎兵衛尉、内藤帯刀の家人となる、」とあり、この内藤家はのちに日向延岡藩主となる家系也。『堀家の歴史』では、秀政、秀治の書状が載せられているが、出典の多くは「延岡堀家文書」とあり、秀政、秀治の関係資料は季郷の家系が所蔵しておるやうなり。

秀政の弟達を見てみると、秀重の三男利重は、天正九年(一五八一)茜部に生まれ、慶長四年(一五九九)堀秀治の人質として江戸に送られ、秀忠の側近となる。『寛政家譜』には、「五年上杉景勝御征伐のとき、下野国宇都宮に供奉す、ときに石田三成反逆のきこえあるにより、御旗を木曾路にむけられ、真田昌幸がこもれる信濃国上田城を攻たまふのとき、したがひたてまつり、のち同国神辺よりことに御馬をすすめらる、この時利重衆に超て速に美濃国郷戸の渡にいたりしかば、御感のおほせをかうぶる、その後、伏見大阪に渡御のときも扈従し、従五位下伊賀守に叙任し、采地八千石を知行しのち井伊掃部頭直孝に代りて御書院番の頭となる、十九年大久保相模忠隣御勘気をかうぶるのとき、利重かの縁者たるにより、奥平大膳大夫家昌にめしあづけられ、」とある。しばらく謹慎を命ぜられ、大阪の役で功を上げ、大名になれり。

四男安重は松平肥前守に仕えたといふ。前田利常のことで、利常は最初筑前守、のち肥前守となったので、季俊と同じ所也。五男は内膳某という名があるのみで不詳、六男三政は最初徳川忠長に仕えるが、忠長が改易されると新発田藩へあづけられ、子孫は新発田藩に仕える。七男延政は『寛永諸家系図伝』に「松平右衛内佐に仕へ、のち浪人となる」とあり、『寛政家譜』に見えないため帰農したやうなり。

八男末成は、最初松平肥前守に仕えるが、「其の家を去り、阿部豊後守に仕え、また処士となる」(『寛永諸家系図伝』)と浪人するが、其の子季正(すえまさ)は最初前田綱紀に仕え、のち京都近衛家に仕官変えする。徳川家宣に近衛家から天英院が嫁ぐこととなり、天英院の桜田の館の用人として江戸に上る。其の子正勝は最初桜田の館の用人をしていたが、宝永元年(一七〇四)、御家人として召され、御広敷の用人として三百俵を賜る。同四年、家宣公に家千代が生まれると比企郡、埼玉郡に六百石を賜り、翌年、大五郎君が生まれると埼玉郡、入間郡に二百石、有償院が生まれると夷隅郡に二百石、大五郎君所労平癒により三浦郡に三百石加増され、合わせて千三百石を領するに至れり。九男の親重は親昌の飯田堀家に仕えたといふ。

直政の家系を見てみると、直清は最上義光の元へ配流される。『堀家の歴史』では直清は寛永十八年(一六四一)に最上で亡くなり、最上家の菩提寺に埋葬されたとあるが、最上家は元和八年(一六二二)に改易されており、その後鳥居家が入封してきて寺を移転したらしく墓の行方は知れずといふ。直清の子達は父と共に罪に服したのち許され、嫡男直昌は「酒井讃岐守につかふ」(『寛政家譜』)とあり、越前小浜の酒井家に仕えた。次男直倫(直浄)は最初村上堀家、のち新発田藩、六男直信(直正)は新発田藩に仕える。七男直長(直勝)は飯田堀家に仕える。(この三人は『寛永系図』の名と村松の直方の系譜で名が違い、括弧内が直方の呈譜での名。『堀家の歴史』や『新発田藩世臣譜』では直方の呈譜の名で書いている)三男から五男が不詳で、『寛政家譜』では「寛永系図、直友直勝をのせて直成、頼母某、舎人某三人を記さず、今直方が呈譜これに反す、恐くは三人のうち同人あるべしといへども、詳にする事あたはず、よりて次に並せしるす、」と五人併記し、そのうち、直成(なおしげ)は飯田堀家に、舎人某は細川越中守に仕えたとある。「直方」は村松藩主で寛政年間に幕府に堀家(直政系)の家譜を提出した人。

直政の子達は『堀家の歴史』には次男に民部少輔直倶(なおとも)という人がいたそうだが詳しいことは伝わっておらず、慶長ころ病気で無役であったという記録があるといふ。其の子に直知がおり、字を喜平太といい、直寄が家臣に宛てた書状に、「民部少輔倅喜平太」という箇所があるそう。直知は村松藩に仕えたが、其の子太郎兵衛尉直高の代で断絶したといふ。この直倶は『寛政家譜』には載っていなく、代わりに直重直之の間に直里がいる。直倶がいたとすると三男直寄、四男直重となる。『寛政家譜』では次男直寄、三男直重、四男直里となる。直寄は、信州飯山四万石を経て、長岡八万石、村上十万石と出世。直重は、堀直政の人質として江戸に行き、秀忠の側近となる。慶長六年(一六〇一)に下総国香取郡矢作に二千石賜り、同十五年、信濃国高井郡に六千石を賜る。そして大阪の役での武功により、大名となれり。直里は、「子孫堀丹後守が家臣となる」とある。五男直之は改易後しばらく直寄のもとで世話になり、大阪の役で武功をたて独立する。六男直忠は「豊臣太閤につかへ、のち直寄が家臣となる」とある。直里、直忠は村上堀家改易後は村松へ行ったのか定かでないが、村松には堀氏の家臣も多いため、この二人の子孫も村松へいったのかもしれぬ。

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大坂の役での堀家
寛政重修諸家譜』を引用し、大坂の役での堀家の人々を見てみたし。

 堀利重は、「元和元年大阪御陣のときひそかに松平下総守清匡(奥平、後改忠明)が手に属し、五月六日七日の合戦に功名をあらはす、清匡つぶさにこれを言上す、八年恩赦をかうぶり、常陸国新治郡土浦にをいて一万石の地をたまふ、」

 堀親良は、「十九年大坂御陣のとき、土井大炊助利勝が手に属して供奉し、元和元年の役に五月七日佐久間備前守安政脇坂淡路守安元等とともに備へを立るのところ、敵兵鉄砲を打ちかくるにより、家臣信多小三次某かの敵をうちとり首を得たり、」

 堀直寄は、「十九年大阪の役に御後備となり、住吉より茶磨山に御陣をうつさせたまふのとき、仰をかうぶりて御旗下の先駈となる、元和元年の合戦には、直寄大和口の軍将水野日向守勝成が手に属し、四月二十四日仰をうけて陣を二隊に備ふ、直寄士卒をひきゐて南都にいたり、一番に備へ、松倉豊後守重正は二番に備ふ、二十六日、諸将河内の境十三塚法隆寺辺に陣す、直寄は高安郷にそなへ、弟三右衛門直之等が二十四騎を斥候とし、敵の形勢をうかがはしむ、このとき敵すでに国分寺を焼き払ひ、道明寺に陣す、直寄敵勝成が陣に夜討せんことを慮り、高安郷より法隆寺に番兵を置事数日なり、五月五日諸将大坂勢を攻撃べき厳命をかうぶり、古来の吉例によりて田尻越よりきそひすすむ、ときに直寄亀瀬越にいたる、村里の老父をよび従卒等直寄を諌て、往昔物部守屋この路を経て終に敗亡にいたりしより、このかた大将たるもの亀瀬越を歴ることなしといふ、直寄がいはく、命を軽じ戦場にのぞむもの何条かかる事を忌避んやと、すみやかにうちこえ、国分寺にいたりて張陣す、六日卯刻の合戦に直寄従兵を分ちて横槍を入、多勢をかけやぶり、首級を得たり、七日敵軍天王寺辺に出張し、いどみ戦ふ、直寄諸将にはせくははり、大勢をつきくづし、首八十級を得たてまつる、両日のたたかひに討取ところの首すべて二百余りにをよびしかば御感の仰をかうぶる、」

 堀直重は、「十九年大坂の役に土井利勝が手に属して供奉し、元和元年の御陣にも利勝が組にありて前駆し、天王寺表にをいて数多の敵と鎗を合す、ときに榊原遠江守康勝が従者加藤忠三郎某はせ来りて、直重が突きふせしところの首をこひ、鎗下の功名し、家臣南部善右衛門某田中伝之丞某も、首二級を得たり、御凱旋ののち、その軍功を賞せられ、高井郡のうちにをいて四千五十石をくはへたまひ、すべて一万二千五十石を領し、須坂を居所とす、」
『堀家の歴史』では天王寺の戦いのとき、直重は蜂須賀家政と先陣を競っていたところ、蜂須賀の軍が敵方毛利勝永の軍に旗印を奪い取られてしまふ。之を直重が奮戦し奪い返したといふ逸話が載っている。これを記念して直重は蜂須賀の家紋「丸に卍」の家紋を自家の家紋とした。二代目直升のとき、蜂須賀と同紋となってしまうため、堀家の元々の亀甲の家紋と合わせ、「亀甲に卍」を須坂堀家の家紋としたといふ。

 堀直之は、大坂の役以前は「兄丹後守直寄にしたがひて江戸にいたり、慶長十六年はじめて台徳院(秀忠)に拝謁し、御書院番の士となり、食禄をたまふ、」と書院番士をしていた。「十九年大坂の役に直寄が手に属して供奉し、元和元年の御陣五月六日道明寺口の合戦に甲首一級をうちとり、七日天王寺表のたたかひに小返の功あり、御凱旋の後其軍功を賞せられ、武蔵国児玉郡のうちにをいて采地千石をたまはり、御使番に列し、二年七月采地を転じ、加恩ありて越後国沼垂郡のうちにをいて五千石の地をたまはり、かつ新墾の田五百石を采地にくはへ、すべて五千五百石を知行し、椎谷を居所とす」
 『堀家の歴史』を参照すると、「甲首一級」は薄田兼相だといふ。また、「小返の功」は東軍が毛利勝永、真田幸村に押され、撤退を始めたとき、直之が殿軍を務め奮戦し、押し返したといふ。

特に直重、直之の前線での活躍が目立つ。祖父の奥田直純は『堀家の歴史』に身の丈七尺とあり、孫達も其の血を受け継ぎ、常人より二回りくらい大きかったのかも。

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新発田藩世臣譜
吾が新発田藩の堀氏と関係があるのでは、と思えるようになったのは新発田藩の『世臣譜』のおかげ也。この本は寛政年間に溝口半兵衛長裕が完成させたもので、溝口半兵衛は新発田藩の家老の家系で、初代藩主溝口秀勝の弟勝吉の家系。代々溝口半左衛門を名乗り、其の嫡男は半兵衛を名乗った。まだ長裕が半兵衛だった若い頃から十八年ほどの歳月をかけて、物頭以上の武家の出自と家臣になった経緯、代々の家譜を聞き取りして調べ上げたといふ。

この家譜のすごいところは、先祖の名前と禄高、相続した年月、没年だけ記した系図は世の中に多くあるが、その人の人柄や悪癖、役職歴や不祥事まで書いてあるところ也。一番情報量が多いのは、半兵衛長裕の時代から見て父親、祖父くらいの世代の逸話で、ヒラの物頭よりも家老などの重臣クラスの家の逸話が多いなどの傾向はある。このような家譜は村松や椎谷の史料に当たったときには出てこなかった。全国的にも稀有ではなかろうか。

この『世臣譜』は寛政年間(1790年代)までの記録であるが、この功績を受け継いで『続世臣譜』というものが完成された。作者は不詳で、複数の人の名が挙げられている。寛政年間から文政年間まで(1790から1820年代後半)の記録がある。さらに安政三年に『武鑑』が作られる。幕末に『武鑑』をつくった藩は多いやう也。村松と椎谷にも幕末から明治頃に作られたものがあった。

明治時代には、『新発田藩諸役人附』といふ役人に登用された人の名簿、『賜禄帳』といふ禄高に応じて自立のための資金を配布した名簿、『奉還禄高及目途職業一覧』といふ再就職の状況を抜粋した史料もある。これらをつなぐと相当のことが分かる。しかしうちは天保年間に庶子で生まれ(戸籍から)、幕末には帰農していた可能性が高く、上記史料からつながりきらない部分がある。明治五年の壬申戸籍が閲覧できれば何か分かりそうだが。

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新発田藩の堀氏
新発田藩には堀直政の嫡男直清の血筋と、秀政の弟で堀秀重の六男三政の血筋の二つの流れがある。宗家の堀忠俊が改易されたとき、堀直清の六男主馬助直正(しゅめのすけなおまさ)は十三歳程だったといふ。父直清と共に最上へ行ったが、子供らは帰国御免となり、直正は叔母に当たる新発田藩二代藩主溝口宣勝の妻長寿院(秀政の三女)に引き取られ、奥で育てられたといふ。成人すると家臣となり、五百石を賜る。ここの嫡流は江戸中後期くらいから堀丈大夫といふ名を代々相続するようになる。

直清の次男主計直浄(かずえただきよ)は、堀直寄の村上藩で侍大将を務め、三千石を領していたが、村上堀家が無嗣改易となった際、三代藩主溝口宣直(直浄、直正の従兄弟)の招きにより、新発田藩に仕える。『世臣譜』によれば、直浄が五十公野の安楽寺に滞在していたとき、宣直公がそれを聞きつけ、山庄小左衛門を使いに出し、千石出してもよい、弟主馬もここにいるのだから他所へ行かないでここで奉公してくれないかと誘ったといふ。ここの嫡流は代々堀主計の名を相続する。

秀政の弟三政は最初徳川忠長に仕えていたが、忠長が改易されると、新発田藩溝口宣直御預けとなる。三政は長寿院の叔父に当たる。『世臣譜』では長寿院の兄となっている。三政は秀治と同世代か年下くらいと思われ、そのため混同したか、年が近いから自ら兄妹と公言していたのかもしれない。三政は家臣にはならず、閑幽と号し、客分の身のまま生涯を終えるが、二人の息子に二百石ずつ賜りたいと宣直公に遺言し、嫡男重昌と三男重時は家臣となる。嫡男は堀勘兵衛、三男は堀善大夫を称し、代々この名を相続した。

新発田藩の堀家は直清系の堀丈大夫、堀主計と三政系の堀勘兵衛、堀善大夫の四家が基となり、分家はそこから分かれていく。

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『世臣譜』の中身
『世臣譜』の中身を主馬助直正から平左衛門直行、内蔵丞直満の三代を例として挙げてみたし。

世臣譜 巻之三

     実氏奥田

主馬助直正は其先祖尾張国主斯波民部少輔源満胤の末裔、奥田七郎五郎某といへしが、斎藤山城守秀竜入道道三に仕ふ堀掃部大夫某の女をめとりぬ。其息を奥田三右衛門政次といへり。織田信長の時、堀左衛門督秀政の麾下たり。堀氏を賜り藤原の姓に改め、堀監物直政といふ。秀政(の子秀治)封を越前北の庄より越後へうつせし時、従ひ来りて三条の城主となりて五万石を領せり。其息監物直清が六男たり。父直清故ありて出羽国最上へ配流せられし時、父子共に罪せられぬ。後、長寿院殿甥の御由緒に依りて当家へ来り、養ひ玉ふて人と成、本藩の臣となりぬ。(或記に直正も十三歳程のとき父直清に従ひ最上へ行く。しかるに直清が子供帰国御免になりて長寿院殿新発田へ御引取りにて奥にて御そだてありと云ふ。)後五百石玉り武頭に至れり(山形組御預け、また後分銅組又鱗形組に組替す)。江戸組を支配せしともいへり。寛永廿年若松御在番の御供せり。慶安三年三月七日、永荒田五町を給ふ。此年九月次第浜にて十匁筒五町の丁打御覧ある(堀主馬、速水源大夫、郷司安兵衛、服部長左衛門等也)。承応元年、宣直公大坂御城番たりし時、御持筒の役を勤め御供せり。明暦元年三月儲君の御傅役となり、延宝元年致仕す。(百五十石を給ふ。堀勘兵衛三政が女をめとる。直正は鉄炮の達人なりと聞く。母は長寿院殿の御姉にて寛永四年五月七日最上に卒せり。芳修院性源妙覚大姉と号す)。息平左衛門直行(部屋住にて百五十石給ふ。)相続して旧知の如く給る。(速水金左衛門成勝が女を娶る。没して再命ありて二女を娶る)。延宝九年常州下舘御在番の御供し、天和元年武頭に至りぬ(矢筈組御預け)。此年高田御在番、貞享二年同所御在番の御供せり。同三年七月十八日致仕して安休と号す。元禄八年二月廿三日、五十一歳にて病死せり。息百助といへり。源兵衛に改め(此名重雄公よりたまふ所の名なり)、後内蔵丞直満に改、貞享三年相続して旧知のごとく賜り、(溝口半兵衛長頼が女を娶る。没して又二女を娶る。)貞享二年十一月高田御在番の御供せり。同三年御用役となり、(此年東武の御供せり。直満年若けれど藩中にて御仕置の者と同じに心得よと命ありしと云ふ。)元禄元年百石御加増あり、同三年四月十六日組頭御仕置の役に至れり。(是迄藩臣四組なりしが、此年より五組となり、新規の組を直満に御あずけなり。)同四年四月二日御細工所にて出来せし鉄炮五挺給りぬ(溝口九兵衛、梶弾右衛門、仙石九郎兵衛、高久助之進、郷司安兵衛も此日同に給ふと云)。同十二年、麻布新堀御普請御用を司る。江城にて時服白銀を給ふ。(公よりは延寿国時の御刀を給ふ代金三枚、儲君より時服御掛物を給ひぬ。)同十五年、二百石御加増あり高八百石たり。宝永元年四月十八日、公入御ありし時、息縫殿丞へ島田助宗の小脇差(代金一枚五両)給ひり、同四年八月二日四十歳にて病死せり。」

『世臣譜』には句読点がないので自分でつけた。句読点が秩序付けられたのは明治以降なのだろうか。括弧でくくられている文は、原典では註のようなかたちで小さく書かれているもの。また「給ふ」「賜ふ」がすべて「玉ふ」となっている。越後に移封されたのは秀治だが、秀政となっているので、(の子秀治)と付け加へた。昔の文は現代人から見て送り仮名が足りないと感じることが多いかとおもふ。ちなみにこの三代は不祥事など載っておらぬが、時代が下るとぽつぽつ出てくる。先祖のことはあまり悪く言いたくないという感情からか、昔すぎて伝わってないのか。

用語説明:
誰々が女をめとりぬ」とある場合の「女」は娘のこと。
」は藩主のこと。「儲君」は藩主の跡継ぎ。若殿様。
致仕」は隠居、退職のこと。
武頭」は物頭とも書き、部隊長のこと。「ものがしら」と読む。課長級か?
何々組御預け」の組は武頭が率いる部隊を四組ないし五組に分けたもの。武頭のうち家老を出す家柄から組頭が選ばれるよう。部長級か?
御仕置の役」は家老のこと。家老は常時五人前後いるよう。江戸に滞在する江戸詰家老が一人から二人。若手の家老見習いは「中老」といふ。
御用役」「御用を司る」の「御用」は用人といふ言葉もあり、藩主の側を務めること。家老の家系の子が若いときに用人を務めたり、代々用人を務めた家系もある。新発田藩の場合、坂井氏、入江氏などがそうで、家老にはならないが、ヒラの武頭より禄高が多い。
東武の御供」は参勤交代で江戸に上ること。「東武の役」と書いてあるところもあったり、また小姓や用人で「東武邸の士」となり江戸に滞在して、藩主の江戸屋敷を警護する仕事もあったよう。
江城」は江戸城。
時服」は「じふく」と読み、春と秋年二回、天皇より皇族や臣下に賜る服のこと(「広辞苑」)。この文の場合実際に天皇から賜っていたわけではなく、主君から臣下に授ける服といふ意味か。
公よりは延寿国時の御刀を給ふ代金三枚」は刀に「代金」を払ったのではなく、刀を賜る「代わりに」金三枚を賜った、と解釈すべきか。実際に何かあるたび刀を授けていたら、主君は授ける刀がなくなってしまうし、家臣の家は刀が一杯になってしまふ。しかし刀を主君から臣下に授けるといふ儀式は残すべきということでこのような形になったのではないかとおもふ。

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直政の子孫たち
 先日、「からくりTV」の商店街の企画で、群馬の藤岡市本通商店街が紹介されていたが、そこで蕎麦屋を営んでいる人が堀氏だった。創業一〇一年だそうで、店の看板には「丸に釘抜」の家紋があった。新発田藩か村松藩か椎谷藩の堀氏だろうか。直政の子孫であることはほぼ間違いないとおもふ。一〇一年前を想像してみるに、蕎麦屋の初代の父親はきっと明治維新で禄を失った士族で、越後から群馬に移住しそこで仕事を見つけたのではないだろうか。そして其の子が蕎麦屋を始めたのが明治四十年頃と。吾の母方の祖父の実家は新潟県刈羽郡の大工の棟梁だったのだが、よく群馬へ仕事をしにいっていたらしい。さういふ人の流れが明治期にあったやうなり。
 
 少し前、技能五輪が話題になっていた。左官部門で女性初のメダルを受賞したのは堀氏だった。彼女の実家は明治初期から五代続く左官屋の家系だそう。兄二人も国内の技能コンテストでメダルを取る腕前らしい。「がっちりマンデー」で特集していた。吾はこの家系も直政の子孫ではないかと推測している。この左官屋のあるところは新潟市の濁川(にごりかわ)といふところで、ここには堀氏が二十件以上集住していて、吾の本家もこの町の旧家也。この土地は新発田城下と新潟町のほぼ中間にあり、両地点を結ぶ旧国道七号があり、昔は新発田川と阿賀野川を渡河し通船川を通り沼垂、新潟へ出る水陸共交通の要所であったことから、新発田藩の堀氏であろうとおもふ。そして新発田藩の堀氏には直清の系と三政の系があるが、直清の六男の直正の血筋だけが子だくさんで、他の家系はたびたび他家から養子をもらったり、婿をもらったりしているので、濁川の堀氏は多くがこの直正の血筋であろうと考えている。

 この二つの例に加えて、吾の親戚などを見ていると、職人、理系、工業系のひとが多い。どうも直政の血筋は職人気質で謹厳実直といふかんじで、商売などはあまり向いていないやう也。前出の蕎麦屋もレモンを練りこんだ蕎麦といふのを試作して不評だったシーンなどがあって、新奇なもの、大衆受けするものは不向きで、伝統を守り職人仕事に徹すべき血筋なのだろう。
 
 吾の曽祖父は万延元年(一八六〇)生まれで、隣町の大工のところへ就職した。祖父は大工を継がず、曾祖母がやっていた呉服屋を継いだ。おそらく曾祖母は商売が上手だったのだろうけれども、曾祖母が亡くなってからは厳しかったらしい。戦後、和服から洋服へシフトしたといふ時代の変わり目も影響しているのかも。伯父も機械の設計屋を営んでいたが、商売の話は苦手だったと言っていた。工場の自動化に貢献していたのだが、工場の労組が自動化反対!とかやっていて(人間がやっていた作業を自動化するから人員削減につながる)、機械はいいものが作れて経営側は興味を持っていたが、商売の話やら政治的な交渉などはまとまらず、といふこともあったらしい。吾も文系の某有名大学を出ておきながら、自己アピール苦手、営業苦手で、さまよった挙句産業機械メーカーのサービス業務に落ち着いた。名古屋に来たのも会社が製造業で、名古屋が一番景気が良くて忙しいから。工業系に落ち着いたのも血筋のなせる業か。

 もしかしたら直政が秀政の与力に据えられたのも、能力は高いのに自分から前面に出る性格ではないのを周りが見ていて、自然とそういう配置になったのではなかろうか。そしてその地位に落ち着いたからこそ存分に能力を発揮できたと。



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会津藩の堀氏
会津若松市立図書館によると、会津藩の堀氏は元々は小川勘兵衛(官兵衛?)といって、美濃の堀氏に仕えていたと言い伝えられ、正保年間に会津へ来藩し、一五〇〇石を賜ったといふ。正保年間といふと、堀直寄の村上藩が無嗣改易されてから五年くらいの時期で、直寄はよく家臣に堀氏を賜姓していたやうなので、吾は直寄の家臣だったのではないかと推測している。

『慶応年間会津藩士人名録』には、堀半右衛門が一〇〇〇石で番頭、堀常彦が三〇〇石で物頭とある。半右衛門が本家で常彦が割と早い時代に分知された家系とおもはれる。慶応年間に全部で十三家(推定)、十七人堀氏がいた。



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堀重俊書状
 堀重俊書状は美濃の郡上市白鳥町長瀧寺に寺領を寄進したもの。所領は浜松にあったやうで、上池川といふ地名は今はないが、下池川といふ地名が浜松城のすぐ北にあり、この近くだらう。白山信仰といふのがあり、東海地方を中心に信者がいたそう。また同じ内容の松平忠頼の書状もあるといふ。

堀重俊寺領寄進状寫

寄進申候白山領之事
合拾石者、
右於末代、相違有間敷候、但在所者、遠州濱松之内
上池川ニ而、寄進申者也、仍如件、
 慶長六丑十一月廿三日
         堀勘兵衛
            重俊
 長瀧寺
   一乗坊参

 堀秀重の子には重俊といふ名の子はいない。勘兵衛といふ名で思い出すのは、徳川忠長に仕え、のちに新発田藩に来た秀重の六男三政。書状の慶長六年頃は浜松は松平忠頼が治めていたやう。徳川忠長の前は松平忠頼に仕えていたのだらうか。年齢は十代半ばくらいか。三政の子は重昌と重時といふ名で、なぜ重といふ字を付けたのかよく分からなかったが、最初重俊といふ名で、のちに三政と改めたのだとすると腑に落ちる。それにしても兄に利重がいるから、同じ兄弟で「とししげ」「しげとし」なんて名付け方も昔はあったんだな〜と変な感じもする。
 堀三政の娘は主馬之助直正に嫁いでいるので、直正の子孫は三政の血も引いている。その三政の足跡にこんな形で触れることができて感無量也。



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