プロフィール

堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、愛知県在住29才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

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たしなむべし。
歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。
堀家の衰退
慶長七年(1602)、堀親良は秀治の次男鶴千代を自らの養子とし蔵王堂藩を継がせ、自分は隠栖料として一万二千石をもらい、越後を出奔す。京都伏見の秀政の遺した屋敷に入ったといふ。

越後を出奔せし理由は表向きは病のためとす。内実は家老の堀直政と不和となり、政務に熱心でない兄秀治に不満の侍りしこと、祖父秀重も健在たること、などがあったといふ。直政、秀重はもはや老齢であるから、世代が変わるのを待てばよかろうにとおもふが、生来独立心も強かったのかもしれぬ、秀治に男子が三人いたことなども影響せん、独立し分家することを望みたり。

親良は、妻の生家紀州浅野家を訪ね、浅野幸長に身の処し方を相談す。そして慶長十一年(一六〇六)駿府の家康に拝謁し、本多正純の家臣と成ることを乞ひ奉る。これにより家康より御感をかうぶり、仰せにより江戸で秀忠に仕へ、廩(蔵)米一万二千石賜れり。奇しくもこの年、二月に鶴千代が早世、五月に秀治が、十一月に秀重が没す。この本家の没落と分家の隆盛といふ構図は、直政の家系にも後に起こり、堀家の改易につながる。

直政はこの間も孤軍奮闘し、家康の直々の指名により、幕府直轄の佐渡の一揆鎮圧に当たる。また、これも家康の命により、京都高台寺の普請奉行を務める。秀吉とねねの菩提寺なり。直政は建築費を自費で半額負担したといふ。高台寺の開山堂内陣に直政の木像が祀られているといふ。この高台寺建築で京都に滞在せしとき、秀治の嫡男吉五郎に徳川家の嫁をもらえるよう家康に懇願し、家康はそれを受け外孫の百合姫(本多忠政の娘)を秀忠の養女とし吉五郎に嫁がせ、さらに秀忠の一字を与え忠俊とし、松平の称号も送られる。また慶長十二年(1607)直江津福島城が完成し、春日山を廃城し忠俊と共に移る。

しかし、秀治が没したのち、忠俊を国主と認める朱印状が秀忠から下附されず、十三年二月、直政は病を押して本多正純に書状を送り、直政は二月二十六日没し、朱印状は直政の死後三月七日付で届く。秀治の死後から一年と十ヶ月近く経っていることからも、堀家をどうにかしたいといふ意図が感じられる。このときは直政のおもしが効いていてとりあえず乗り切ったといふところか。

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堀秀治
堀秀治は短命であり、また歴史的な転機にあまり関わらざるがゆへ、とかく「病弱」、「凡庸」といふ評価をされがちなり。我は秀治公の名誉が回復されんことを願い、次の句を引用す。

「子曰く、無為にして治まる者は、其れ舜か。夫れ何をか為さん。己を恭(うやうや)しくし正しく南面するのみ、と。」(『論語』 衛霊公)

堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)は上古の聖人なり。孔子は舜を無為にして治まる者、つまり何もしなくても治まったとして称えたり。「南面す」は王座に就いているといふこと。とかく近現代は何か功績を残すことに価値を見い出しがちなり。心して読むべし。我は秀治公のあり方もかやうならんと信ずるものなり。

「堯は舜を得ざるを以て己が憂となし、舜は禹・皐陶(こうよう)を得ざるを以て己が憂となす。夫れ百畝の易(治)まらざるを以て己が憂となす者は、農夫なり。人に分つに財を以てする、之を恵と謂い、人に教うるに善を以てする、之を忠と謂い、天下の為に人を得る之を仁と謂う。是の故に天下を以て人に与うるは易く、天下の為に人を得るは難し。孔子曰く、大なるかな、堯の君たるや、惟天を大なりとなす、惟堯之に則(のっと)る、蕩蕩乎として民能く名(なづ)くるなし、君(善)きかな舜や、巍巍乎として天下を有(たも)ちて、与(あづか)らずと。堯・舜の天下を治むる、豈(あに)其の心を用うる所なからんや、亦(ただ)耕すに用いざるのみなり。」(『孟子』 滕文公章句下)

堯、舜共に有能有徳の人材が得られるかどうかのみを憂ひたり。「天下を以て人に与うるは易く、天下の為に人を得るは難し。」が肝要で、秀治公は、既に得難き人物を多く得たればこそ無為たりし。秀重、親良、直政、直清、直寄、溝口秀勝、村上義明、近藤重勝、堀甲斐守らみな得難き人物なり。その得難き人々が関ヶ原以後次々にうしなはれ、堀家の没落となれり。

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関ヶ原前哨戦、上杉遺民一揆
「上杉家譜代のつわもの共、皆宇人して越後に引込罷有し輩、直江が催促により、又三成より懇に書状到来せしより、皆是に一味し、譜代の家人を召集ける程に、物具、馬具こそ見苦しけれ、屈竟のつわもの八千余人、鉄砲二千挺ぞ集まりける、」(『北越太平記』)

「上杉家は、勇将猛士多しといへども、新領地に馴れず、防戦の準備行届かざれば、兼続の智計を以って、小身の内、智謀に富み、忠義金鉄の士数名に内意を授け、浪人を名として越後に入り、恩顧ある神官、僧侶、荘内等に謀り、この頃、大塚助右衛門、桑原勘右衛門等を以って国中便宜に検地入を苦情の一つにして、一揆を起さしめ、支配職堀家を始め、越後諸侯の徳川家の命を承け、会津へ討手に出立するを遮らせんと、巧言を以って教唆させしむ、野武士、山賊等、時を得て是れに加り、果して十一月に亘り新領を悩ませり。」(『越後風土記』)

『寛政重修諸家譜』の堀直寄の項には、
「五年上杉景勝越後の国人をして一揆を起こさしめ、八月朔日小倉主膳某が居城下倉を囲ましむ、二日直寄坂戸より下倉にはせむかひこれをたすけていどみたたかひ、敵首三百余級を得たり、一揆等田川小千屋表に引退く、直寄にぐるを追てまた二百余人を討取、東照宮をよび台徳院殿(秀忠)より御感書をたまふ、」
下倉は関越道堀之内IC付近にその地名が侍り、坂戸は六日町にあり、田川は十日町の辺りなり。

堀直政の項には、
「五年東照宮会津御発向のとき、越後国は上杉景勝が旧領たるにより、景勝その国人をかたらひ、会津の境にをいて一揆をおこさしむ、直政すみやかに柏崎に出陣しかの徒を討捕、其乱をたひらぐ、東照宮その功をきこしめされ、九月二十一日御感の御書を下さる、」

堀直次(のちの直清)の項には、
「慶長五年東照宮会津御征伐のとき、直次越後国三条城に住す、上杉景勝其国の土民をかたらひ、八月四日三条城を攻討、一の木戸に押よする、直次拒ぎ戦て敵数多を討取、そののちまた一揆の徒越後の境加茂山に砦をかまへ九月八日会津の兵三千余人とともに大崎に出張す、ときに直次三条城より討て出、敵将を討取、百五十余級の首を得たり、台徳院殿其戦功を賞美せられ、御書二通を下さる、」
大崎は三条市の南東加茂方面に西大崎、東大崎といふ地名が今もあり。

堀親良の項には、
「慶長五年上杉景勝本国にありながら逆謀をくはだて、斎藤、柿崎、丸田等を軍長とし、一揆の党をひきひて会津のさかひ下田村に楯籠、このとき親良みつから軍士をあいしたかへ、いとみたかひて首級を得、すなはち上意に達す、ここにをひて大権現台徳院殿御書をたまふ、」とあり。

時系列でみると、八月一日に下倉で一揆勃発、直寄が鎮定。
八月四日、三条で一揆勃発、直政の嫡男直次が是を退ける。
直政の柏崎での戦は日付はなしといへども、是と同時期か。親良の下田村への出陣もこの時期か。親良は八月十七日に家康より、八月二十日に秀忠より感状を賜れり。


八月五日、石田三成が挙兵したるに備へ、家康は江戸に戻れり。直江兼続は家康追撃を景勝に進言したるが、景勝は「此度の儀は堀直政の讒言により、家康が仕掛けるため、ひと合戦と支度をしたり、されど家康が此方に構はず、江戸に引取るに於いては、此方も会津へ引取るべきは理の当然である。」と出陣を拒否せり。

九月一日、家康より直寄宛て書状が来る。石田三成らが美濃の大垣に集結しているので、自分はそちらへ出馬する。会津の上杉景勝が坂戸方面へ侵攻するようなら、真田信幸、本多康重、平岩親吉、牧野康成に援兵を出すよう命じておるゆへ、これら諸将と協力して城を堅守するよう、といふものなり。

九月八日、直寄は父直政、兄直清と共に三条から津川に向けて兵を出した。津川に向かう途中(直次の項での大崎の戦か)、一揆の兵が高所に登り、三段に構え、深田を前にして備えていた。これを見て直寄は家臣に「敵が深田を前にして、高きところに備えたれば、我れよりかかって勝負をいたせば、敗北は必定なり、密かに脇道より敵の横合いに出で、仕掛けて切り崩さば、勝利は我にあらん、」と身近な兵10人ほどで、崖陰に廻り、敵の右の傍より迫り、鉄砲を撃ちかけ、敵を切り崩し、これを平定したといふ。

九月二十一日、直政は一揆鎮圧の功により家康から感状を賜る。
「一揆を催し候のところ、即ち懸合ひ、ことごとく討捕られ候よし、粉骨の至り神妙に候、」
直次、直寄は日付は記されざるが同じ時期か。

関ヶ原戦を境に一揆は自然消滅していったといふ。

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上杉遺民一揆前夜
秀吉の命による大名の国替えの際は、年貢米は半分のみ徴収し、残りの半分は後に来る領主のために残しておく決まりになっており、上杉家と堀家にも同様の取り決めが侍りぬ。しかし、直江兼続石田三成の謀議により、年貢米は全て持ち去られり。

『越後風土記』によると、
「上杉家徒封につき、領主交代頻繁に依り、各領民夫役に苦しむ、故に当国新古の領主協議して、当戊(慶長三年)の貢税半収と約定す、然るに兼続は三成と謀り、景勝を勧め、兵を挙げんとするが故に、新領主堀家・溝口家・村上家等と結約を破り、旧領主を督促し、貢税の全額を徴収して会津へ移る、」とある。

家老の堀直政は再三返還を交渉したるが、兼続は相手にせず、かへって堀家を愚弄する有様なり。むべなるかな。目的は米にあらず、堀家を挑発することに有り。堀家はやむなく新潟代官河村彦右衛門から二千俵の米を借りぬ。兼続は河村とは旧知の間柄ゆへ、直政からの借米証を入手して、秀吉の死後さかんに返済を督促したといふ。

直政は其の意図を知りたる故に、今は耐え忍び、家康を巻き込まんとす。

慶長五年(1600年)、二月一日に書状を送り、
「越後は上杉の旧領なれば、国中の民百姓、景勝を慕う事、父母を思ふが如し。是れにより一揆を起こさんかと気遣い、枕を傾けて眠る事を得ず、公儀もし緩がせに御沙汰候て、事延べ候はば、天下の大事にいたるやも知れず、」と家康に直訴せり。

三月十三日、上杉謙信の二十三回忌に上杉景勝は色部長門、甘粕備後、本荘越中守ら諸将を会津若松に召集せり。四月、直江兼続は越後に密使を放ち、上杉恩顧の遺臣、柿崎三河守、丸田右京、長尾景近、斎藤利実、宇佐美、矢尾板、竹俣、神保らに越後での蜂起を命ず。謙信公の遺骨を会津へ持って行かなかったのはこのためといふ。「謙信公の墓を守れ」といふのが大義名分なり。武器を買い集め、砦を築き、新道を造り、前田慶次郎、上泉泰綱、小幡将監、山上道及らの浪人を雇い入れり。

直政はこれらの実情を徳川家康に報告せり。家康は家臣伊奈昭綱を使者として会津に送る。その返答が直江状であるが、その中で、越後への野心を問われた際に「久太郎(堀秀治)ふみつぶし候に、何の手間入り申すべきや。橋架けるにいたらず、」と堀家を侮りたり。家康は上杉討伐の軍を組織し、秀治にも「津川口から会津へ攻め入るべし」との書状を送る。これについて一族で合議せり。

直寄は太閤の恩に報いるため上杉たちと組むべきと主張。直政は太閤のみの恩ではない、信長公の御恩から起こったのだと主張。秀政も信長公の御子孫が衰退したことを嘆いていたと明かす。秀頼公の本心ではない、公の御為にもならない、家康の勝利は必定であると直政が言うと、一族は皆同意す。戦への備えをし、家康の指示を待ちたり。

のちに石田三成から書状が来る。

「前田利長、丹羽長重そのほか北国の諸将、皆上方同意なり、之に依り北国の通路を開き、景勝に合力して忠節せられるべし。」

直政はこれは三成の策略であろうと見抜き、三成には良き様に返答し、前田利長の家老横山山城守へ問い合わせ状を出し、

「利長、内府(家康)に対し、二心なき旨の、分明の返答あり。」

との返事をもらい、家康方に付く決心を強くす。wikipediaでは「近年、堀秀治が西軍につこうとした書状が見つかっている」と記されたるが、これは徳川に付く決心をした後に来た三成の書状に、良き様に返答した二枚舌の産物とおもふ。この頃すでに秀重の三男利重と直政の四男直重は徳川のもとへ人質として預けられ、徳川秀忠のもとにおり、豊臣側に付こうとするなどありえぬ話なり。

三成は直江兼続にも書状を送り、「越後の儀は上杉本領に候えば、中納言殿(秀頼)へ被下置候旨、御内意に候。」「堀久太も大阪方御奉公の志に候。」
越後をまた上杉に与えてやる、これは秀頼公の内意だ、堀秀治も大阪側だと。
堀家が上杉に越後を脅かされ憤りたる現状も見れぬほど切迫したるにやあらん。


この文は、wikipediaの堀直政の記事を下地に多少加筆修正したものなり。
あちらの記事も我の手によるものなれば大目に見られたし。

参考文献は『堀家の歴史』 堀直敬著 堀家の歴史研究会 1967年

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