プロフィール

堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、愛知県在住29才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

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たしなむべし。
歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。
改易後の進路
改易後の堀家の人々を追って見たいとおもふ。

秀治の嫡男忠俊は磐城の鳥居忠政のもとへあづけられ、彼の地で二十六歳で亡くなれり。忠俊には子があり、季俊(すえとし)といへり。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政家譜』)には、「七郎兵衛、松平筑前守の家人となる、」とあり、松平筑前守とは前田利常の事也。加賀藩士となれり。秀治の次男鶴千代は早世、三男は季郷(すえさと)といい、『寛政家譜』に、「三郎兵衛尉、内藤帯刀の家人となる、」とあり、この内藤家はのちに日向延岡藩主となる家系也。『堀家の歴史』では、秀政、秀治の書状が載せられているが、出典の多くは「延岡堀家文書」とあり、秀政、秀治の関係資料は季郷の家系が所蔵しておるやうなり。

秀政の弟達を見てみると、秀重の三男利重は、天正九年(一五八一)茜部に生まれ、慶長四年(一五九九)堀秀治の人質として江戸に送られ、秀忠の側近となる。『寛政家譜』には、「五年上杉景勝御征伐のとき、下野国宇都宮に供奉す、ときに石田三成反逆のきこえあるにより、御旗を木曾路にむけられ、真田昌幸がこもれる信濃国上田城を攻たまふのとき、したがひたてまつり、のち同国神辺よりことに御馬をすすめらる、この時利重衆に超て速に美濃国郷戸の渡にいたりしかば、御感のおほせをかうぶる、その後、伏見大阪に渡御のときも扈従し、従五位下伊賀守に叙任し、采地八千石を知行しのち井伊掃部頭直孝に代りて御書院番の頭となる、十九年大久保相模忠隣御勘気をかうぶるのとき、利重かの縁者たるにより、奥平大膳大夫家昌にめしあづけられ、」とある。しばらく謹慎を命ぜられ、大阪の役で功を上げ、大名になれり。

四男安重は松平肥前守に仕えたといふ。前田利常のことで、利常は最初筑前守、のち肥前守となったので、季俊と同じ所也。五男は内膳某という名があるのみで不詳、六男三政は最初徳川忠長に仕えるが、忠長が改易されると新発田藩へあづけられ、子孫は新発田藩に仕える。七男延政は『寛永諸家系図伝』に「松平右衛内佐に仕へ、のち浪人となる」とあり、『寛政家譜』に見えないため帰農したやうなり。

八男末成は、最初松平肥前守に仕えるが、「其の家を去り、阿部豊後守に仕え、また処士となる」(『寛永諸家系図伝』)と浪人するが、其の子季正(すえまさ)は最初前田綱紀に仕え、のち京都近衛家に仕官変えする。徳川家宣に近衛家から天英院が嫁ぐこととなり、天英院の桜田の館の用人として江戸に上る。其の子正勝は最初桜田の館の用人をしていたが、宝永元年(一七〇四)、御家人として召され、御広敷の用人として三百俵を賜る。同四年、家宣公に家千代が生まれると比企郡、埼玉郡に六百石を賜り、翌年、大五郎君が生まれると埼玉郡、入間郡に二百石、有償院が生まれると夷隅郡に二百石、大五郎君所労平癒により三浦郡に三百石加増され、合わせて千三百石を領するに至れり。九男の親重は親昌の飯田堀家に仕えたといふ。

直政の家系を見てみると、直清は最上義光の元へ配流される。『堀家の歴史』では直清は寛永十八年(一六四一)に最上で亡くなり、最上家の菩提寺に埋葬されたとあるが、最上家は元和八年(一六二二)に改易されており、その後鳥居家が入封してきて寺を移転したらしく墓の行方は知れずといふ。直清の子達は父と共に罪に服したのち許され、嫡男直昌は「酒井讃岐守につかふ」(『寛政家譜』)とあり、越前小浜の酒井家に仕えた。次男直倫(直浄)は最初村上堀家、のち新発田藩、六男直信(直正)は新発田藩に仕える。七男直長(直勝)は飯田堀家に仕える。(この三人は『寛永系図』の名と村松の直方の系譜で名が違い、括弧内が直方の呈譜での名。『堀家の歴史』や『新発田藩世臣譜』では直方の呈譜の名で書いている)三男から五男が不詳で、『寛政家譜』では「寛永系図、直友直勝をのせて直成、頼母某、舎人某三人を記さず、今直方が呈譜これに反す、恐くは三人のうち同人あるべしといへども、詳にする事あたはず、よりて次に並せしるす、」と五人併記し、そのうち、直成(なおしげ)は飯田堀家に、舎人某は細川越中守に仕えたとある。「直方」は村松藩主で寛政年間に幕府に堀家(直政系)の家譜を提出した人。

直政の子達は『堀家の歴史』には次男に民部少輔直倶(なおとも)という人がいたそうだが詳しいことは伝わっておらず、慶長ころ病気で無役であったという記録があるといふ。其の子に直知がおり、字を喜平太といい、直寄が家臣に宛てた書状に、「民部少輔倅喜平太」という箇所があるそう。直知は村松藩に仕えたが、其の子太郎兵衛尉直高の代で断絶したといふ。この直倶は『寛政家譜』には載っていなく、代わりに直重直之の間に直里がいる。直倶がいたとすると三男直寄、四男直重となる。『寛政家譜』では次男直寄、三男直重、四男直里となる。直寄は、信州飯山四万石を経て、長岡八万石、村上十万石と出世。直重は、堀直政の人質として江戸に行き、秀忠の側近となる。慶長六年(一六〇一)に下総国香取郡矢作に二千石賜り、同十五年、信濃国高井郡に六千石を賜る。そして大阪の役での武功により、大名となれり。直里は、「子孫堀丹後守が家臣となる」とある。五男直之は改易後しばらく直寄のもとで世話になり、大阪の役で武功をたて独立する。六男直忠は「豊臣太閤につかへ、のち直寄が家臣となる」とある。直里、直忠は村上堀家改易後は村松へ行ったのか定かでないが、村松には堀氏の家臣も多いため、この二人の子孫も村松へいったのかもしれぬ。

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新潟、長岡の礎
直寄は鶴千代を補佐し、鶴千代が早世すると坂戸と蔵王堂を兼務し五万石を領せり。蔵王堂城は長尾為景の弟為重が築城した城だが、信濃川の側で年々浸食が進んでいたため、上流の大島庄平潟原に築城を計画する。この地が長岡と呼ばれるようになる。語源には、神田表町千手の地が遠くから見ると長い丘のように見えるから(『長岡市史』)、長岡京に似ているから(『越後往古城主付』)、そしてこの地を御館の乱のとき本荘清七郎の家臣神保隠岐守と長岡縫殿助(ぬいのすけ)が領していて、戦に敗れ神保は会津へ逃亡、長岡は留まって討死した、という記述が『越後治乱記』にあり、その後も子孫の長岡氏がこの地を領していたため長岡の名が付いたという説がある。長岡が文書に出てくるのは慶長十年(一六〇五年)に蔵王堂渡し守与助に、長岡渡しに場所を変更する、今まで通りの給米で雇う旨の文書が、鶴千代の老臣堀甲斐守から出されたとき。これ以後、長岡の名が文書に多く出てくる。

慶長十五年(一六一〇年)直寄は信州飯山四万石に転封され、長岡築城は中断。松平忠輝の家臣山田勝重が蔵王堂城主となるが、高田城築城のため、任地を顧みる暇はなかったやうなり。元和二年(一六一六年)、松平忠輝が改易となり、十月、直寄は三万石加増で、再び長岡の領主となれり。築城と共に、城下町の整備も行なふ。築城と平行した都市計画では町人、百姓、寺院などほとんどが他から招致したものだったといふ。つまり長岡といふ都市の歴史はここに始まるといふこと也。

外港の新潟町(現在の新潟市中央区古町)もその領内で、直寄は交易や人口増加のことを考え、諸税を免除し、以後の発展の礎を築いたといふ。現代でいう経済特区のようなものだろうか。この政策を牧野家が引き継ぎ、百数十年実施されたため、新潟は他の港、出雲崎、柏崎、直江津などと比べて頭一つ抜け出したのだとおもふ。この政策は長岡藩が財政難となり廃止される。越後の郷土史で必ず出てくる、新潟明和騒動と涌井藤四郎の話也。ちなみに、直寄の統治以前には新潟町は何もない漁村だったというような言われ方をされることもあるやうなるが、上杉時代に既に代官が置かれていて、堀家が新潟代官河村彦右衛門から二千俵の米を借りたといふ逸話があることから、蔵があり商業も盛んであったことが想像される也。

元和四年(一六一八年)、直寄は二万石の加増を受け、村上十万石に転封。長岡城は完工目前で牧野忠成に引き継がれり。牧野氏は幕府の要職にあり、寛永七年(一六三〇年)まで長岡に入国できなかったこともあり、明暦三年(一六五七年)の改正まで「しきたり」と称し「堀丹後守御証文通り」として、直寄の制度をそのまま踏襲し、いささかの不便もきたさなかったといふ。新潟長岡を守り育てたるは後の世の人々なるが、発展の基礎を築きしは堀直寄なりといふ話。

この文は、wikipediaの記事を下地に多少加筆修正したものなり。
あちらの記事も我の手によるものなれば大目に見られたし。

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堀家の改易
慶長十三年(一六〇八年)、堀直清は父直政の死後三条五万石の城主となり、堀家の執政職となる。慶長十五年(一六一〇年)直清の僧侶殺害を直寄が家康に訴えたため、堀家は改易となるのだが、その僧侶殺害については、『堀家の歴史』によると直清と本願寺の僧が宗論となり、僧侶を弾圧、僧侶がそのやり方を非難し、一揆を起こしかねない状況になり、首謀者を捕えて斬首したといふ。

直政の妻自性院(五男直之の母)は、この騒動が一向一揆に発展し、堀家の没落に発展しかねないと恐れ、自分の縁者に当たる徳川秀忠の妻お江の方(崇源院)に書状を送り、善処を乞うた。さらに、直寄を使いに家康にも助力を求める。家康はこれにより直政時代にはできなかった堀家除封の口実を得たり。堀忠俊、堀利重、堀直清、堀直寄ら一族が駿府へ呼び出され、家康による裁定がなされり。忠俊は直清には非が無いことを訴え、助命嘆願せり。家康は「家中取締不十分」とし、忠俊から所領を没収、忠俊は岩城の鳥居忠政のもとへ配流、直清も所領没収、最上義光のもとへ配流となる。直寄は一万石の減封。

ウィキペディアではできなかった邪推、身内びいきを色々と試みたし。まず、騒擾を起こしたる僧侶は何者だったのか。堀家を没落させんといふ意図を持ちて騒ぎを起こしたのではないかとおもふ。考へらるるのは、
一、上杉遺民一揆で、身内が討死した上杉恩顧の越後領内の人間。
二、直江兼続に近い人間で上杉家中で与板衆が立場を失ひしことを恨みて。
三、徳川家康や本多正純ら幕府中枢で練られ、送り込まれた刺客。
四、天海が明智光秀または明智秀満といふ俗説が侍るが、そうならば秀政、直政に攻め滅ぼされたことを恨みて家康に献策した。
五、『堀家の歴史』では「かつて親良が、家康の許に飛込んだときに、家康の胸中に芽生えた堀家除封のことは、その後、穏密裡に奥羽の謀将伊達政宗の手に移り、」と伊達政宗の関与の可能性を指摘す。堀家の改易後には松平忠輝が越後に入るが、福島城を廃城し、高田城を築城したるは忠輝の舅政宗の指揮であるため也。

領主には裁判権があり、直清はそれを遂行しただけではないのか。僧侶にどういった非があったのかが今となっては良く分からぬが。「一揆を起こしかねない状況」といふことだが、関ヶ原以後越後領内では刀狩りが行われており、もし武器を隠し持っていたのならそれだけでも問題であろう。忠俊は直清を擁護せり。さらに直寄は「兄弟訴論」、「共に国事を争ひ」などと表現され、直清と不仲であるように思はれがちなるが、堀家の改易後、直清の次男主計直浄は村上藩の直寄のもとで侍大将を務めたるゆへ、兄弟不和なのかどうか。新発田藩の話のときにも少し考察したし。

我のおもふに、堀家は越後を伊達政宗、松平忠輝、大久保長安の一派と、家康、秀忠ら幕府中枢との権力闘争の舞台にされ、犠牲になりにけん。堀家のあとに松平忠輝、大久保長安、忠隣も改易されるが、そのときなぜか秀重の三男堀利重も大久保忠隣に連座して謹慎を命じられり。利重が実際に権力闘争に関わっていたのかどうか詳しくは調べておらぬが、堀家あたりの中堅どころは、上のほうでの争いに翻弄されるがままといふ感じなのだらうか。

この文は、wikipediaの記事を下地に多少加筆修正したものなり。
あちらの記事も我の手によるものなれば大目に見られたし。

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