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| プロフィール |
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Author:堀久太郎
新潟県出身、愛知県在住29才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。
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| たしなむべし。 歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。 |
| 『世臣譜』の中身 |
『世臣譜』の中身を主馬助直正から平左衛門直行、内蔵丞直満の三代を例として挙げてみたし。
「世臣譜 巻之三
堀 実氏奥田
主馬助直正は其先祖尾張国主斯波民部少輔源満胤の末裔、奥田七郎五郎某といへしが、斎藤山城守秀竜入道道三に仕ふ堀掃部大夫某の女をめとりぬ。其息を奥田三右衛門政次といへり。織田信長の時、堀左衛門督秀政の麾下たり。堀氏を賜り藤原の姓に改め、堀監物直政といふ。秀政(の子秀治)封を越前北の庄より越後へうつせし時、従ひ来りて三条の城主となりて五万石を領せり。其息監物直清が六男たり。父直清故ありて出羽国最上へ配流せられし時、父子共に罪せられぬ。後、長寿院殿甥の御由緒に依りて当家へ来り、養ひ玉ふて人と成、本藩の臣となりぬ。(或記に直正も十三歳程のとき父直清に従ひ最上へ行く。しかるに直清が子供帰国御免になりて長寿院殿新発田へ御引取りにて奥にて御そだてありと云ふ。)後五百石玉り武頭に至れり(山形組御預け、また後分銅組又鱗形組に組替す)。江戸組を支配せしともいへり。寛永廿年若松御在番の御供せり。慶安三年三月七日、永荒田五町を給ふ。此年九月次第浜にて十匁筒五町の丁打御覧ある(堀主馬、速水源大夫、郷司安兵衛、服部長左衛門等也)。承応元年、宣直公大坂御城番たりし時、御持筒の役を勤め御供せり。明暦元年三月儲君の御傅役となり、延宝元年致仕す。(百五十石を給ふ。堀勘兵衛三政が女をめとる。直正は鉄炮の達人なりと聞く。母は長寿院殿の御姉にて寛永四年五月七日最上に卒せり。芳修院性源妙覚大姉と号す)。息平左衛門直行(部屋住にて百五十石給ふ。)相続して旧知の如く給る。(速水金左衛門成勝が女を娶る。没して再命ありて二女を娶る)。延宝九年常州下舘御在番の御供し、天和元年武頭に至りぬ(矢筈組御預け)。此年高田御在番、貞享二年同所御在番の御供せり。同三年七月十八日致仕して安休と号す。元禄八年二月廿三日、五十一歳にて病死せり。息百助といへり。源兵衛に改め(此名重雄公よりたまふ所の名なり)、後内蔵丞直満に改、貞享三年相続して旧知のごとく賜り、(溝口半兵衛長頼が女を娶る。没して又二女を娶る。)貞享二年十一月高田御在番の御供せり。同三年御用役となり、(此年東武の御供せり。直満年若けれど藩中にて御仕置の者と同じに心得よと命ありしと云ふ。)元禄元年百石御加増あり、同三年四月十六日組頭御仕置の役に至れり。(是迄藩臣四組なりしが、此年より五組となり、新規の組を直満に御あずけなり。)同四年四月二日御細工所にて出来せし鉄炮五挺給りぬ(溝口九兵衛、梶弾右衛門、仙石九郎兵衛、高久助之進、郷司安兵衛も此日同に給ふと云)。同十二年、麻布新堀御普請御用を司る。江城にて時服白銀を給ふ。(公よりは延寿国時の御刀を給ふ代金三枚、儲君より時服御掛物を給ひぬ。)同十五年、二百石御加増あり高八百石たり。宝永元年四月十八日、公入御ありし時、息縫殿丞へ島田助宗の小脇差(代金一枚五両)給ひり、同四年八月二日四十歳にて病死せり。」
『世臣譜』には句読点がないので自分でつけた。句読点が秩序付けられたのは明治以降なのだろうか。括弧でくくられている文は、原典では註のようなかたちで小さく書かれているもの。また「給ふ」「賜ふ」がすべて「玉ふ」となっている。越後に移封されたのは秀治だが、秀政となっているので、(の子秀治)と付け加へた。昔の文は現代人から見て送り仮名が足りないと感じることが多いかとおもふ。ちなみにこの三代は不祥事など載っておらぬが、時代が下るとぽつぽつ出てくる。先祖のことはあまり悪く言いたくないという感情からか、昔すぎて伝わってないのか。
用語説明: 「誰々が女をめとりぬ」とある場合の「女」は娘のこと。 「公」は藩主のこと。「儲君」は藩主の跡継ぎ。若殿様。 「致仕」は隠居、退職のこと。 「武頭」は物頭とも書き、部隊長のこと。「ものがしら」と読む。課長級か? 「何々組御預け」の組は武頭が率いる部隊を四組ないし五組に分けたもの。武頭のうち家老を出す家柄から組頭が選ばれるよう。部長級か? 「御仕置の役」は家老のこと。家老は常時五人前後いるよう。江戸に滞在する江戸詰家老が一人から二人。若手の家老見習いは「中老」といふ。 「御用役」「御用を司る」の「御用」は用人といふ言葉もあり、藩主の側を務めること。家老の家系の子が若いときに用人を務めたり、代々用人を務めた家系もある。新発田藩の場合、坂井氏、入江氏などがそうで、家老にはならないが、ヒラの武頭より禄高が多い。 「東武の御供」は参勤交代で江戸に上ること。「東武の役」と書いてあるところもあったり、また小姓や用人で「東武邸の士」となり江戸に滞在して、藩主の江戸屋敷を警護する仕事もあったよう。 「江城」は江戸城。 「時服」は「じふく」と読み、春と秋年二回、天皇より皇族や臣下に賜る服のこと(「広辞苑」)。この文の場合実際に天皇から賜っていたわけではなく、主君から臣下に授ける服といふ意味か。 「公よりは延寿国時の御刀を給ふ代金三枚」は刀に「代金」を払ったのではなく、刀を賜る「代わりに」金三枚を賜った、と解釈すべきか。実際に何かあるたび刀を授けていたら、主君は授ける刀がなくなってしまうし、家臣の家は刀が一杯になってしまふ。しかし刀を主君から臣下に授けるといふ儀式は残すべきということでこのような形になったのではないかとおもふ。
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| 佐佐木が旗差堀次郎 |
『太平記』の国民文庫本版の三十三巻の「京軍事(きやういくさのこと)」に次の文がある。
「(前段略)三月十三日、仁木・細川・土岐・佐々木・佐竹・武田・小笠原、相集て七千余騎、七条西洞院へ押寄せ、一手は但馬・丹後の敵と戦ひ、一手は尾張修理大夫高経と戦ふ。此陣の寄手(よせて)動(ややもすれ)ば被懸立体(てい)に見へければ、将軍より使者を立られて、「那須五郎を可罷向。」と被仰ける。(中略)那須が討死に、東寺の敵機(き)に乗らば、合戦又難儀に成ぬと危(あやふ)く覚へける処に、佐々木六角判官入道崇永(そうえい)と相摸守清氏と両勢一手(ひとて)に成て、七条大宮へ懸(かけ)抜け、敵を西にうけ東に顧(かへりみ)て、入替々々半時許(はんじばかり)ぞ戦たる。東寺の敵も此を先途(せんど)と思けるにや、戒光寺の前に掻楯(かいだて)掻(かい)て打出(うちいで)々々(うちいで)火を散して戦けるに、相摸守薄手(うすで)数所(あまたところ)に負(おう)て、すはや討れぬと見へければ、崇永(そうえい)弥(いよいよ)進(すすみ)て是(これ)を討(うた)せじと戦ふたる。斯(かかる)処に土岐桔梗(ききやう)一揆五百余騎にて、悪手(あらて)に替(かは)らんと進けるを見て、敵も悪手(あらて)をや憑(たのみ)けん、掻楯(かいだて)の陰をばつと捨(すてて)半町計(ばかり)ぞ引たりける。敵に息を継(つが)せば又立直す事もこそあれとて、佐々木と土岐と掻楯(かいだて)の内へ入て、敵の陣に入替らんとしけるが、廻る程も猶(なほ)遅くや覚へけん、佐佐木が旗差(はたさし)堀(ほりの)次郎、竿(さを)ながら旗を内へ投げ入て、己が身は軈(やが)て掻楯を上り越てぞ入たりける。其後相摸守と桔梗一揆と左右より回て掻楯の中へ入、南に楯を突双(つきならべ)て、三千余騎を一所に集め、向城(むかひじやう)の如くにて蹈(ふま)せたれば、東寺に篭(こも)る敵軍の勢、気を屈し勢を呑(のま)れて、城戸(きど)より外(そと)へ出ざりけり。京中の合戦は、如此数日に及て雌雄日々に替り、安否今にありと見へけれ共、時の管領仁木左京大夫頼章(よりあきら)は、一度も桂川より東へ打越ず、只嵐山より遥に直下(みおろ)して、御方の勝(かち)げに見ゆる時は延上(のびあが)りて悦び、負るかと覚しき時は、色を変じて落支度の外(ほか)は他事(たじ)なし。同陣に有(あり)ける備中の守護飽庭許(あいばばかり)ぞ、余(あま)りに見兼て、己が手勢許(ばかり)を引分て、度々の合戦をばしたりける。され共大廈(たいか)は非一本支、山陰道をば頼章の勢に塞(ふさ)がれ、山陽道は義詮朝臣(よしあきらあそん)に囲れ、東山・北陸(ほくろく)の両道は将軍の大勢に塞(ふさ)がつて、僅(わづか)に河内路より外はあきたる方無りければ、兵粮(ひやうらう)運送の道も絶ぬ。重(かさね)て攻上るべき助の兵もなし。合戦は今まで牛角(ごかく)なれ共、将軍の勢日々に随(したがひ)て重る。角(かく)ては始終叶はじとて、三月十三日の夜に入て右兵衛佐直冬朝臣(ただふゆあそん)、国々の大将相共に、東寺・淀・鳥羽の陣を引て、八幡・住吉・天王寺・堺の浦へぞ落られける。」
この戦は、足利尊氏の晩年ころ、其の子直冬が山名氏や斯波高経らと反乱を起こしたときのもの。二代将軍義詮と管領仁木左京大夫頼章の他、佐々木六角判官崇永、細川相模守清氏、土岐、武田、佐竹、小笠原らが追討せし。このとき堀次郎は佐々木の旗差をしていたやうなり。次郎といふ名からして次男か、あるいは分家して代々次郎の名を継いでいる家系か。他に先んじていることから、佐々木氏の側を固める近臣ではなさそう、旗差を持っていたからただの雑兵でもなさそう。想像するに佐々木氏にそれほど近くない立場の近江の土豪の家の次男が軍事徴発で動員され、先陣で戦っていたといふかんじか。近江の堀氏は美濃の堀氏から分かれたのだろうか、其の逆なのだらうか、それぞれ別の流れなのだらうか。
去年、甲子園の高校野球観てたら近江高校に堀選手と多賀監督がいた。多賀氏といへば秀政の弟で秀重の次男秀種が養子に行ったところ。多賀監督は堀選手に途中代打を出して降板させていた。四百年前の歴史の縁を知っていたなら、途中交代させなかったんじゃないかなんてことを考えながら野球を見ていた。それはともかく、堀氏は美濃だけでなく、近江にも多いやう也。
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| 蜂須賀正種 |
『古代氏族系譜集成 上巻』所収の系図と蜂須賀庄相伝によると(出典は『新田族譜』『百家系図稿』とある)、斯波持種には義敏の他に義孝という子がおり、其の子正種が蜂須賀家に婿入りしているといふ。斯波の血筋とはいへ、応仁の乱で越前を失い、庶流の大野家は地盤をなくしていたころであったろうから、婿入りの要請があったのだとしたら快諾したのではなかろうか。蜂須賀郷は現在の愛知県美和町にあり、稲沢市奥田と数キロしか離れていなく、親戚の奥田家とも近い(持種の弟氏種は応仁の乱以前に尾張奥田に分家している)。正種の弟種重は奥田郷に住んだといふ(ただしこの奥田郷は知多郡の奥田とあり、種重が奥田秀種に相当していて、さらに『系図纂要』では義孝の子は義縁と義信となっていて正種はいなく腑に落ちない面も多い。新田の家譜に詳しいが斯波の家譜にはあまり詳しくない人の手によるものか。採用できそうなのは斯波家から婿をもらったという伝承のみか)。 蜂須賀氏は正種の子正利のとき川並衆を率いていたといふ。美和町は木曽川からは離れていて、蜂須賀郷にいて川並衆を率いていたとは考えにくい。川並衆は一宮市から江南市辺りの濃尾国境を活動域としていたそうで、正利のときに蜂須賀郷から濃尾国境へ移住したものとおもはれる(『寛政家譜』には正利は「蜂須賀の里を領す」とあるのみ。正勝は初めから犬山の織田家に仕えているので正利の後半生に移住した可能性もあるが、史料の裏づけはない)。移住した側が現地の人々を従わせるといふのは、武力でなかったとしたら、権威ではないだらうか。ただの国人領主にはできない芸当ではなかろうか。そして奥田家も秀種のとき対岸の美濃の茜部に移住している。奥田秀種は斯波義敏の孫、蜂須賀正利は義敏の弟義孝の孫だから同時代(成人したとき一五二〇年代)の人物也。この一致は非常に興味深い。
秀種は土岐氏の家臣となり(『堀家の歴史』)、正利の子正勝は犬山織田家、岩倉織田家に仕えたり、美濃の斉藤氏の家臣になったりしたといふ。斯波武衛家が幕府に軍役を課せられたり、国内の権力争いで疲弊しておる現状から学んで、国境付近の独立性の強い勢力になろうとしたのだらうか。あるいは、武衛家が遠江奪還に専念するため(秀種が成人した頃は斯波義達は没し、遠江も失っていた)、庶流の奥田、蜂須賀に濃尾国境の緩衝勢力となるよう指示したのだらうか。
奥田家は美濃の堀家から嫁をもらう。また、秀政の妹で秀重の長女は生駒讃岐守一正に嫁いでいる。生駒家の地盤は江南市役所と岩倉市役所の中間に辺りにある「小折」といふところらしい。応仁の乱で奈良の生駒から移住し、馬借を生業とし、財を成し力を蓄えたそう。生駒家は蜂須賀とも縁戚。木曽川を隔てた両岸で交流があったことが伺はれる。
堀秀重は織田信長に仕え、奥田直純は斉藤義龍に仕えた。姻戚同士でもどちらが生き残っても家が守られるように仕官先を別にしている。のちに直純も織田家に仕え、この地域の覇者は信長になるだろうと見通しが立ったやうなり。このころには蜂須賀正勝も織田家に仕えていたのではなかろうか。そして正勝は秀吉に仕え、大名となる。
蜂須賀家の家譜で信憑性が高いのは正利からであるといふ。だから蜂須賀が本当に斯波の血筋かどうかは分からない。しかし、吾は前述のとおり、斯波家の視点から見ると、尾張の一国人領主の婿になる必然性があったやうにおもふ。地盤を失ったこと、親戚の奥田家が近いことが状況証拠となりうるかとおもふ。濃尾国境に移住したと思われる時期が近いことは、血筋はともかく、互いに連絡を取り合っていたのかと思わせる。ちなみに、奥田と蜂須賀の中間辺りに西溝口といふ地名があり、溝口秀勝はここの出身のやうなり。
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| 君が代のルーツ |
古今和歌集 巻第七 賀歌(がのうた) の第一首に次の歌がある。
題しらず よみ人しらず
わが君は 千世にやちよに さざれいしの いはほとなりて こけのむすまで
作者未詳で、『古今和歌集隠名作者次第』には橘清友とある。橘諸兄の孫で、仁明天皇の外祖父にあたる人。古注には「平城天皇を橘清友が祝してよめる歌」とするものの他、「寛平七年正月に人々を召て歌読給ける時、貫之歌也」といふものもあるといふ。
古今集のほかにも『新撰和歌』『和歌体十種』『和漢朗詠集』など多くの文献に見られる。
原本『古今集』、初稿本『和漢朗詠集』では「千代に八千代に」は「千代にましませ」、「こけのむすまで」は「苔むすまでに」となっており、『和歌十体種』になるとそこから「こけのむすまで」になり、再稿本、精選本『和漢朗詠集』『深窓秘抄』で「千代に八千代に」となり、歌謡『古今集』で「わが君は」が「君が代は」となり、見慣れた歌となるといふ。
知っていた人も多いかも知れぬが、吾は古今集を読んでいて偶然見つけたので、いたく驚き感動せり。君が代が五七五七七になっていたことも今まで気づかなかった。
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