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| プロフィール |
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Author:堀久太郎
新潟県出身、愛知県在住29才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。
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| たしなむべし。 歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。 |
| 奥田秀種に至る系譜 |
「(前段略)義種が男民部少輔(はじめ左衛門佐)満種応永三十四年七月七日死す、年五十二、その長男民部大輔持種、三男源三郎氏種尾張国中嶋郡奥田城(或端の城ともいふ)に住し、これより奥田と称す、文明十一年八月二日死す、年六十七、法名道仙、其男源三郎氏英(或氏春)永正元年十月七日死す、年六十二、法名道念、其男民部(はじめ三右衛門)直種(或利種)永正十六年三月二十二日死す、法名道権、其養子三右衛門秀種(初三郎満長或満利)実は斯波三郎政敏が子なり、(政敏は民部大輔満種が長男、民部大輔持種が男左兵衛督義敏が子なり。)弘治三年九月五日死す、年五十四、法名道有、其男を七郎五郎直純とし、監物直政がとき、藤原氏となり堀を称すといふ、」 「某 三右衛門尾張国奥田に住し、のち美濃の茜部にうつり、近江国においてしばしば戦場にのぞみ、高名をあらはす、」(『寛政重修諸家譜』、以下『寛政家譜』)
「某 奥田三右衛門尉、 斯波民部少輔満種の苗裔なり、尾州奥田に住す、このゆへに奥田をもつて称号とす、そののち濃州赤鍋に居し、江州にをひて数度高名す、時の人のしれる所なり、」(『寛永諸家系図伝』) 「(前段略)このうち三男に当る源三郎氏種は、始めて尾張国中島郡奥田庄を領し、この地名により、斯波氏を、奥田氏と改めた。氏種の玄孫三右衛門秀種は、実は斯波治部大輔義敏の子で、奥田氏の養子となり、いつの頃か美濃国土岐家の家臣となって、近江源氏佐々木家との合戦のみぎり、「四ツ目結び」の定紋の旗指物を奪い取り、本紋は「亀甲に花菱」のところ、さらに「四ツ目結び」の一箇を取って家紋のひとつに加え、「釘貫」と称した。」(『堀家の歴史』) 『寛政家譜』では義敏―政敏―秀種という血筋で、奥田家は氏種―氏英―直種の三代。『堀家の歴史』では義敏の子が秀種となり、奥田家は「氏種の玄孫」とあることから、氏種―氏春―春種―利種の次に秀種がくる家譜を採用しているとおもはれる。また『系図纂要』が氏種を持種の三男としていたが、生没年からいって、満種の三男で持種の弟が正しい。例によって括弧内の文は註のようなかたちで小さく書かれている部分。
秀種が義敏の子であるとすると、義敏が五十八才の時の子となり、義敏は生きてはいるが、無理があるとおもふ。政敏がいたとおもはれる状況証拠としては、堀直政の初めの名が奥田三右衛門政次であること也(直政は次男だから「次」)。直純が祖父の名から取ったのだとおもふ。何の脈絡もなく「政」の字がでてくるといふのは昔の武家ではあまりないやうにおもふ。嫡流の『続群書類従』所収の「武衛系図」でも義良(斯波義寛)の次に津川義近(斯波義銀)と津川義冬がいて、義達、義統がいない。いるはずの人がいない系図といふのが、応仁の乱後から戦国中期にはあるやうなり。この「武衛系図」には政敏はいない。『寛政家譜』のほうが正しいとおもふ。
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