プロフィール

堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、愛知県在住29才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

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たしなむべし。
歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。
直政の子孫たち
 先日、「からくりTV」の商店街の企画で、群馬の藤岡市本通商店街が紹介されていたが、そこで蕎麦屋を営んでいる人が堀氏だった。創業一〇一年だそうで、店の看板には「丸に釘抜」の家紋があった。新発田藩か村松藩か椎谷藩の堀氏だろうか。直政の子孫であることはほぼ間違いないとおもふ。一〇一年前を想像してみるに、蕎麦屋の初代の父親はきっと明治維新で禄を失った士族で、越後から群馬に移住しそこで仕事を見つけたのではないだろうか。そして其の子が蕎麦屋を始めたのが明治四十年頃と。吾の母方の祖父の実家は新潟県刈羽郡の大工の棟梁だったのだが、よく群馬へ仕事をしにいっていたらしい。さういふ人の流れが明治期にあったやうなり。
 
 少し前、技能五輪が話題になっていた。左官部門で女性初のメダルを受賞したのは堀氏だった。彼女の実家は明治初期から五代続く左官屋の家系だそう。兄二人も国内の技能コンテストでメダルを取る腕前らしい。「がっちりマンデー」で特集していた。吾はこの家系も直政の子孫ではないかと推測している。この左官屋のあるところは新潟市の濁川(にごりかわ)といふところで、ここには堀氏が二十件以上集住していて、吾の本家もこの町の旧家也。この土地は新発田城下と新潟町のほぼ中間にあり、両地点を結ぶ旧国道七号があり、昔は新発田川と阿賀野川を渡河し通船川を通り沼垂、新潟へ出る水陸共交通の要所であったことから、新発田藩の堀氏であろうとおもふ。そして新発田藩の堀氏には直清の系と三政の系があるが、直清の六男の直正の血筋だけが子だくさんで、他の家系はたびたび他家から養子をもらったり、婿をもらったりしているので、濁川の堀氏は多くがこの直正の血筋であろうと考えている。

 この二つの例に加えて、吾の親戚などを見ていると、職人、理系、工業系のひとが多い。どうも直政の血筋は職人気質で謹厳実直といふかんじで、商売などはあまり向いていないやう也。前出の蕎麦屋もレモンを練りこんだ蕎麦といふのを試作して不評だったシーンなどがあって、新奇なもの、大衆受けするものは不向きで、伝統を守り職人仕事に徹すべき血筋なのだろう。
 
 吾の曽祖父は万延元年(一八六〇)生まれで、隣町の大工のところへ就職した。祖父は大工を継がず、曾祖母がやっていた呉服屋を継いだ。おそらく曾祖母は商売が上手だったのだろうけれども、曾祖母が亡くなってからは厳しかったらしい。戦後、和服から洋服へシフトしたといふ時代の変わり目も影響しているのかも。伯父も機械の設計屋を営んでいたが、商売の話は苦手だったと言っていた。工場の自動化に貢献していたのだが、工場の労組が自動化反対!とかやっていて(人間がやっていた作業を自動化するから人員削減につながる)、機械はいいものが作れて経営側は興味を持っていたが、商売の話やら政治的な交渉などはまとまらず、といふこともあったらしい。吾も文系の某有名大学を出ておきながら、自己アピール苦手、営業苦手で、さまよった挙句産業機械メーカーのサービス業務に落ち着いた。名古屋に来たのも会社が製造業で、名古屋が一番景気が良くて忙しいから。工業系に落ち着いたのも血筋のなせる業か。

 もしかしたら直政が秀政の与力に据えられたのも、能力は高いのに自分から前面に出る性格ではないのを周りが見ていて、自然とそういう配置になったのではなかろうか。そしてその地位に落ち着いたからこそ存分に能力を発揮できたと。



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近江国の堀氏
浅井三代記』七巻の「亮政宮澤を頼み為員を可討(うつべき)計略并(ならびに)堀能登守降参事」の後半部分を引用する(『改定史籍集覧 第六冊』所収。括弧内と句読点は吾が追加した)。

 「かくて備前守(亮政)は七月二十一日、赤尾駿河守教政、井口弾正、大野木土佐守、三田村左衛門大夫を小谷の城に残し置、我身は三千五百余騎にて坂田郡へ働出、在々の侍共を押寄せ押寄せ攻め給ふに皆降人となりて會釋す。同月二十四日に門根村の城へ押寄たまふ。堀能登守は子息遠江守に両家老の樋口三郎兵衛、多良右近相添(あいそへ)山口へ出向ひ可防(ふせぐべし)と被申(もうされ)ければ、遠江守三百計りにて打て出、山口にてささへけり。もとより雙方山の切所なれば小勢なりと申せとも討破り可入(いるべく)様もなくして互に矢軍(やいくさ)して居たり。かかりける所に浅井大和守は赤尾孫三郎、海北善右衛門尉、雨森彌兵衛いさない二百騎計りの勢にて敵の城取の後の山へのひあかり、山のかさより大石を落し込ければ城中驚き騒動すること夥(おびただ)し。堀能登守は物馴れたる兵なれば走り廻りて下知しけるは、味方の兵共大手樋口が陣へ加りて防べし。後の敵に向ひ石にうたれて犬死すな、又後敵かさよりおとし来り城を攻ば其時は出向ひ可防。敵近づかざる先に出向ひうたるべからずとて追手の陣へ向ひける。斯て一両日が間息もくれずおめきさけんで攻ければ城中の兵残りすくなく落行く。能登守今はかなはじと思ひ、樋口多良を左右にして四百騎ばかり真黒になり寄手の陣へ駆込、敵を四方へ追払い城中へ引取、門をかためて防ぎければ、亮政心に思ひ給ふやう、此(この)堀は江北にて久しき家、其身も剛の者なれば討取事も不便なりと思ひ給ひ、今井肥前守、新庄駿河守(に)被仰付(おおせつけられ)噯を入給へば、堀は不斜(なのめならず)悦びて子息小次郎を人質に出し、我身は一門召具し備前守殿の御前に伺候し御礼申上、以後忠節をはげますべしと悦ぶ事限りなし。備前守は其近辺の仕置等(を)今井肥前守、新庄駿河守に被仰付。則(すなわち)堀には本領無相違(そういなく)給はり佐和山表へ重(ね)て可攻寄とて同二十七日に小谷に帰城したまひけり。」

 この戦は永正十五年(一五一八)七月のことで、浅井亮政(すけまさ)により、次々と江北の国人たちが攻め落とされて配下に組み入れられて行く過程の部分也。「討取事も不便なりと思ひ給ひ」の「不便」は難儀しそう、簡単にはいかなそう、と解釈すべきか。あるいは新発田藩の『世臣譜』に「不便」を「ふびん」と読ませている箇所があり、その読みだとすると、惜しんだ、哀れんだといふ解釈になる。堀能登守は別の箇所で頼貞、頼眞といふ諱があり、どちらかが誤植で、ネットで見る限り、現代語訳などでは頼貞を採用しているところが多い。子に遠江守がいて、家老に樋口氏がいることから堀秀村の祖父とおもはれる。子には遠江守のほかに小次郎といふ人物がいることが分かる。そして堀能登守を投降させた新庄氏、今井氏といふのは坂田郡箕浦の国人で、『寛政重修諸家譜』堀秀村の家譜には、

「堀 はじめ新庄と称し、のちあらためて堀を家号とす、」
とあり、秀基―存村(ながむら、秀村と同一人物か)―秀信と来る系図で、秀信の項には、

「秀信 実は新庄駿河守直頼が三男、近江国堀新庄今井の三家、実子なきときはたがひに三家のうちをして家督をつがしむ、よりて存村が養子となる、」とある。

 近江国の堀氏は元々は新庄氏だった事が分かる。しかし、いつから堀氏にしたのかがよく分からない。戦国武鑑というサイトで新庄氏、今井氏を調べたら、藤原秀郷の後裔俊名が近江国新庄に土着し、新庄氏を称したといふ。そして室町幕府二代将軍義詮に仕えていて、その父遠俊も尊氏に仕えていたといふ。その遠俊の弟に今井氏の初代資俊がいる。秀郷流の系図(『近江町史』収録)では遠俊の五代前の時代に堀藤太俊成といふ人が居て、新庄、今井の祖は弟の俊平の血筋。この系図では堀氏がはじめ新庄と称していたといふ『寛政家譜』と矛盾するが、堀、新庄、今井が親密な間柄であることは納得できる。『太平記』の堀次郎は秀郷流なのだらうか。浅井亮政が「此(この)堀は江北にて久しき家、」と言っていることから、堀藤太の家系が『太平記』の堀次郎、戦国時代の堀秀村へと続くのだらう。



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春日山の思ひ出
名古屋へ車で移動するに当たって、予行演習として上越へ行った。友人がちょうど上越に赴任しており、春日山を案内してもらった。高速で行けば途中休憩しても一時間半。長岡JCT過ぎて大積から米山あたりの景色は最高。友人の話では下道の8号も海沿いの景色が最高らしい。柏崎が観光客減少しているのは残念な話也。

最初、直江津の福島城跡に行ってみようと思ったが、高速降りて道に迷い断念。wikipediaによると古城小学校の辺りに本丸があったと推定されるそう。地図で見ると海にすごく近くて、国府から東へ数キロ。堀直政が商業の盛んな港町を造ろうとして、官の側からその方針を築城といふかたちではっきり打ち出していたのが想像されて、やはりただものではないとおもふ。これからは戦ではなく産業だといふ先見の明があったのだとおもふ。あるいは佐渡金山との交易の便を考えたのだらうか。

昔の守護職は任地に赴くとまずその国の一ノ宮に参拝したといふ。それにならひ、上越に着き友人に会ったら、まず居多神社へ参拝し、国分寺へも参った。静かで神聖な空間だった。

吾が監物堀を見たいと言ったので、友人が春日山城史跡広場へ案内してくれた。『堀家の歴史』が出版された昭和四十二年当時は遺構のみだったのが、復元されていて、
「現存していた土塁を壊さず、全体を覆うように盛土しました。堀の水際は、土があらわれないように
杭と板で土留めを施しています。高さは現存する部分から推測して、150cm盛土しました。」
「堀を発掘した際、薄い板がたくさん出土しました。土塁の上には塀があったのではないかと推測されましたが、大半が削平されていたので、柵をイメージして作られています。」(春日山城史跡広場のパンフレットより)とのこと。
監物堀


史跡広場の「ものがたり館」は展示もビデオも上杉謙信ばかりで辟易した。越後人はみんな謙信が好きなのは吾も異論はないが。パンフレットにかろうじて、
「現在見られるような広大な城に整備されるのはずっと後のことで、上杉謙信・景勝と堀氏(16世紀後半)によるものと考えられています。」
と一行堀氏が出てくるのみ。監物堀の名前の由来が出てこない。堀直政のあざなが監物だからといふのを知らないのか、それとも史料の裏づけがなく伝承のレベルでしかないから採用しなかったのか。他にも薬研堀(やげんぼり)といふ空堀跡もあって、これもおそらく誰かのあざなから取った名ではないかとおもふが、触れていない。

「この城の特徴は、山城であることに加えて、屋敷や空堀が展開する山の裾野に、延長1.2kmに及ぶ堀と土塁で総構がつくられていることです。全国的にもめずらしく、大変貴重な遺跡といわれています。」(パンフレットより)
監物堀がそれほど貴重なものであるなら、堀家が上杉との戦に備えて造ったと思われる歴史についても触れるべき也。上杉景勝が織田軍に攻められたときに造られたにしては方角が違う。すくなくとも伝承の「監物」の名は堀直政から也。

次に、林泉寺へ行った。入場料500円払い中へ入った。惣門といふ上杉謙信が春日山城から移築したといふ門があり、ちょうど冬囲いを外したばかりといふ日で、タイミングがよい。中へ入れば墓参りも自由のようで、早速堀秀政たちの墓のあるところへ。秀重、秀政、秀治の三基ある墓のうち、秀政の墓のみ少し奥で、向きも違うのだが、木陰や日の角度などもあるのか、秀政の墓のみ没年や法名がはっきり読めるが、秀重、秀治のは風化が著しく読めなかった。
堀秀政公の御墓

道哲


ほかにも上杉謙信、長尾為景、能景(謙信の父と祖父)、松平家、榊原家の墓もあり、パンフレットに墓の地図がある上、墓の前に立て札があるので見つけやすい。林泉寺の宝物館には堀氏のものは、「丸に梅鉢」の家紋入りの膳と御椀があった。写真不可だったので説明書きは記憶頼みだが、「丸に梅」の家紋は菅原姓や太宰府天満宮の信奉者がこの家紋を用いた。斉藤道三が梅の家紋を用いていて、秀治公の四代前の利房のとき道三から拝領したと伝えられている、といふ趣旨だった。秀政は「三つ盛亀甲に花菱」だった気がする。替紋(メインは定紋、サブは替紋、複数家紋をもっていることも多い)だらうか。『寛政家譜』も秀政の家系は「三亀甲」とある。林泉寺は伝え聞いたままを残しているのだろうけれども、なんとなく腑に落ちず、『堀家の歴史』にあった秀政の嫁の実家の喜多嶋家が菅原姓で、といふ記述から、あの遺品は秀治、親良の母の嫁入り道具だったのはないかとおもふ。




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名古屋に転勤
四月から名古屋に転勤となり、先立って三月は転勤準備で多忙をきはめ、ようやく一息。いつかは奥田や茜部へ行ってみたいとはおもひしが、かやうに早くその機会にめぐまれるとは。とはいへみづから希望したわけでもなく、それがゆへになおのこと御先祖の導きではないかともおもふ。図書館で郷土史料を調べるのも楽しみ。少しでも多くのご先祖の足跡を見つけられたらとおもふ。

二月は新潟の図書館で『堀鉄団公記』を読み、三月は上越の春日山へ行き、秀重、秀政、秀治三代の墓へ参った。あとは尾張の国府が稲沢市の国府宮(こうのみや)付近、室町時代の守護所が同市の下津(おりづ)にあったことを知り、そこから近い奥田を領した御先祖は、やはりたしかな血筋なのだろうといふ思いを強くした。



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