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堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、在住30才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

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信長の側近、堀秀政
堀秀政は天文二十二年(1553年)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の坊主であった伯父の元で従兄弟の堀直政と共に育てられたといふ。最初、大津伝十郎某(信長の側近衆の一人)に仕えるが、ここにいても出世できないだろうと見極め、木下藤吉郎秀吉の下に仕官変えせし。永禄八年(1566年)、織田信長が秀吉のもとに訪れた際、秀政を見初めて自らの小姓として取り立てたといふ(『寛政重修諸家譜』の記載、別の史料で秀吉が推薦したというものも見かけし)。弱冠十六歳で、将軍足利義昭の仮住まいの本圀寺の普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立せり。

秀政は奉行職だけでなく戦場でも活躍す。

天正三年(1575年)の越前一向一揆討伐には京都で本願寺から書状をもらい、これを越前の一向門徒に示し、蜂起を鎮定したといふ。

天正五年(1577年)の紀伊雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛、羽柴秀吉らとともに一隊を率いし。この時は手の者百人余が討死したといふ。

翌年の有岡城攻めでは、信長出陣の前に万見重元とともに有岡方面に出向く。総攻撃の際には万見、菅屋長頼と鉄砲隊を率いし。同年播磨へ出陣、三木の支城攻めで、越前衆が主力だが、津田信澄と秀政も派遣されし。

天正七年、荒木村重討伐で織田信忠にしたがひ功あり、天正九年には伊賀攻めで、大将は織田信雄だが、信楽口からの部隊は秀政が率いし。天正九年(1581年)に近江国坂田郡に2万5000石を与えられし。

天正十年(1582年)三月の武田氏攻めでは信長に従って甲信に入るが、織田信忠が武田を滅ぼしたあとで戦闘には参加せず、帰りに草津で湯治をしたといふ。

奉行としての仕事は、天正七年、安土宗論のとき菅屋、長谷川らと奉行を務めり。翌年、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋、長谷川らと務めり。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などが侍る。また、徳川家康の堺での接待役を明智光秀が外されたあと、丹羽長秀と共に務めし。この接待を終えた後、備中の秀吉の下へ向へり。

父の秀重は、秀政の補佐として、秀政とは別に、近江坂田郡に三千石を賜り、美濃の茜部と合わせ、五千石を領したといふ。

この文は、wikipediaの記事を下地に多少加筆修正したものなり。
あちらの記事も我の手によるものなれば大目に見られたし。

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