|
少し時間があったので初めから読んでます。いつも興味があるのが堀秀重です。息子以下が栄達してるのですが、彼は独立大名までにはならなかったのですね。余り事蹟も伝わらないし、それでも関ヶ原後まで生存していたようですね。あくまで信長の頃は岐阜周辺の土豪という位置づけで、その後、子の七光りって奴で、越前や越後に息子以下が転じた時についていったのかな。郷土資料には「岐阜市六条に墓あり」との記載がありましたが詳細不明です。林泉寺にはお墓がありましたよね。
【2007/12/28 08:01】
URL | 岐阜の堀久 #- [ 編集]
【2007/12/30 08:29】
URL | みんな の プロフィール #- [ 編集]
秀重は秀政が信長の側にいたり、秀吉の下で遠征行ってたりで、領国を留守にすることが多かったから、領国経営を担当していたみたいです。『織田信長家臣人名事典』の堀秀重の項を見ると、
「天正十六年(1588)五月二日、越前性海寺に判物を発し、寺内の椿・竹・木を無断で伐る者があれば報せるよう命じている(性海寺文書)。越前北ノ庄城主である子の秀政の代官のような役割を果たしていたことがうかがわれる。秀政が没し、孫秀治が越後に移されると、同国内で一万四百石を領す(堀家譜)。ここでも、慶長二年(1597)六月八日には、十郷井水のこと、鳴鹿口よりの堰のことについて指示するなど孫の下で政務に励んでいる(大連文書)。」とあります。
堀直政も秀吉時代は秀政と遠征に行ってたみたいですが、信長時代は、先の事典によると、「秀政の臣として、堀家の家事を執行する(武家事紀)。」とあります。
戦国時代を描くときは槍働きが絵になるから目立たない分野は省略されがちなんでしょう。領国経営とか一族郎党の面倒とか、そういうところにも人手は要るということが見えてきます。
【2007/12/30 13:50】
URL | 堀久太郎 #- [ 編集]
なるほど。石田三成の父・正継も代官など務めていたかと思いますが、そんな感じかな。当主の父や祖父だったりした訳だから、家中での発言権は大きかったのでしょうね。特に越後30万石に転じてからは、人手も要るし、重きをなしたのでしょう。ただ、少なくとも戦場に出た記録は無いようですね。
【2007/12/31 12:07】
URL | 岐阜の堀久 #- [ 編集]
|