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堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、在住30才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

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たしなむべし。
歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。
秀政没後の堀家
秀政没後の堀家は、秀政の嫡男秀治を当主としつつも、其の祖父秀重と家老の堀直政が政務を主導せり。秀重は信長時代五千石を領せしが、『寛政重修諸家譜』によると
「のち豊臣太閤につかへ、加恩ありて一万石を領し、のち左文字の脇指を賜ふ、」とあり、さらに
秀重太閤に属すといへども、よりより東照宮に拝謁し、しばしば厚恩をかうぶる」とあり。
豊臣の天下が続いても、徳川の天下になろうとも堀家が存続するための布石とおもふ。

秀政の次男親良は、前出の家譜には、
「天正十九年正月二十四日、秀吉の命によて従五位下に叙せられ、且秀家と号す、秀政死去ののち越前国にをひて二万石の地を領す、このとき豊臣姓羽柴氏をたまはり、」とあり、関ヶ原頃まで羽柴美作守秀家といへり。親良はのちの名なり。

また、秀治の越前襲封を嘆願した際、堀直政の使者として直政の三男直寄が太閤に直談判し、其の度胸を認められ、太閤の小姓に取り立てられたといふ。

ほとんどのひとにはどうでもよき話なるが、堀直政は越前北ノ庄時代、堀直次と署名した文書が存在す。wikipediaには「奥田直政と言われることもある。」と何者かが記したるが、後世の人が作った名ではないかと思ふ。我の知る限り、奥田三右衛門政次、堀直次、堀直政の三通りしか史料では見かけず。これ以外に奥田直次はありえるかも知れぬが。昔の武士は一生のうち何度か名を変える風習があり、しかも諱(実名、反対にあざなは監物、久太郎など)は普通他人は知らぬもので、身内と主君のみ知っていたといふ時代なり。そのため斯波家の人も江戸時代の新発田藩の堀家もたびたび名前が変わっており、正確に伝わっているのは稀有のことなり。

ともあれ秀政の死後、これらの人々で越前北ノ庄を八年間統治し、慶長三年越後へ移封されり。堀秀治以下堀家は三十万石、溝口秀勝は新発田六万石、村上義明は本荘(のちの村上)九万石なり。堀家は堀直政は三条五万石(城代は嫡男直次)と柏崎の代官を務めり。越後上布の取引は太閤の直轄になっており、その代官なり。ふだんは春日山におりて秀治の補佐を務めり。

親良(このときは秀家)は蔵王堂(まだこの時代長岡城下は存在せず)四万石、そのうち一万石を近藤重勝に与ふ。重勝は山崎の戦いのとき、直政のもとで鉄砲隊長を務めり。このときは親良の家老なり。

坂戸二万石(魚沼六日町)に直政の三男直寄直寄はみづから太閤に志願し、越後へ来たり。祖父の秀重は一万四百石を領す。

ここからが堀家の波乱であり、大舞台でもあり。関ヶ原前哨戦の上杉遺民一揆なり。

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この記事に対するコメント

少し時間があったので初めから読んでます。いつも興味があるのが堀秀重です。息子以下が栄達してるのですが、彼は独立大名までにはならなかったのですね。余り事蹟も伝わらないし、それでも関ヶ原後まで生存していたようですね。あくまで信長の頃は岐阜周辺の土豪という位置づけで、その後、子の七光りって奴で、越前や越後に息子以下が転じた時についていったのかな。郷土資料には「岐阜市六条に墓あり」との記載がありましたが詳細不明です。林泉寺にはお墓がありましたよね。
【2007/12/28 08:01】 URL | 岐阜の堀久 #- [ 編集]


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【2007/12/30 08:29】 URL | みんな の プロフィール #- [ 編集]


秀重は秀政が信長の側にいたり、秀吉の下で遠征行ってたりで、領国を留守にすることが多かったから、領国経営を担当していたみたいです。『織田信長家臣人名事典』の堀秀重の項を見ると、

「天正十六年(1588)五月二日、越前性海寺に判物を発し、寺内の椿・竹・木を無断で伐る者があれば報せるよう命じている(性海寺文書)。越前北ノ庄城主である子の秀政の代官のような役割を果たしていたことがうかがわれる。秀政が没し、孫秀治が越後に移されると、同国内で一万四百石を領す(堀家譜)。ここでも、慶長二年(1597)六月八日には、十郷井水のこと、鳴鹿口よりの堰のことについて指示するなど孫の下で政務に励んでいる(大連文書)。」とあります。

堀直政も秀吉時代は秀政と遠征に行ってたみたいですが、信長時代は、先の事典によると、「秀政の臣として、堀家の家事を執行する(武家事紀)。」とあります。

戦国時代を描くときは槍働きが絵になるから目立たない分野は省略されがちなんでしょう。領国経営とか一族郎党の面倒とか、そういうところにも人手は要るということが見えてきます。
【2007/12/30 13:50】 URL | 堀久太郎 #- [ 編集]


なるほど。石田三成の父・正継も代官など務めていたかと思いますが、そんな感じかな。当主の父や祖父だったりした訳だから、家中での発言権は大きかったのでしょうね。特に越後30万石に転じてからは、人手も要るし、重きをなしたのでしょう。ただ、少なくとも戦場に出た記録は無いようですね。
【2007/12/31 12:07】 URL | 岐阜の堀久 #- [ 編集]


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