プロフィール

堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、愛知県在住29才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

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たしなむべし。
歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。
春日山の思ひ出
名古屋へ車で移動するに当たって、予行演習として上越へ行った。友人がちょうど上越に赴任しており、春日山を案内してもらった。高速で行けば途中休憩しても一時間半。長岡JCT過ぎて大積から米山あたりの景色は最高。友人の話では下道の8号も海沿いの景色が最高らしい。柏崎が観光客減少しているのは残念な話也。

最初、直江津の福島城跡に行ってみようと思ったが、高速降りて道に迷い断念。wikipediaによると古城小学校の辺りに本丸があったと推定されるそう。地図で見ると海にすごく近くて、国府から東へ数キロ。堀直政が商業の盛んな港町を造ろうとして、官の側からその方針を築城といふかたちではっきり打ち出していたのが想像されて、やはりただものではないとおもふ。これからは戦ではなく産業だといふ先見の明があったのだとおもふ。あるいは佐渡金山との交易の便を考えたのだらうか。

昔の守護職は任地に赴くとまずその国の一ノ宮に参拝したといふ。それにならひ、上越に着き友人に会ったら、まず居多神社へ参拝し、国分寺へも参った。静かで神聖な空間だった。

吾が監物堀を見たいと言ったので、友人が春日山城史跡広場へ案内してくれた。『堀家の歴史』が出版された昭和四十二年当時は遺構のみだったのが、復元されていて、
「現存していた土塁を壊さず、全体を覆うように盛土しました。堀の水際は、土があらわれないように
杭と板で土留めを施しています。高さは現存する部分から推測して、150cm盛土しました。」
「堀を発掘した際、薄い板がたくさん出土しました。土塁の上には塀があったのではないかと推測されましたが、大半が削平されていたので、柵をイメージして作られています。」(春日山城史跡広場のパンフレットより)とのこと。
監物堀


史跡広場の「ものがたり館」は展示もビデオも上杉謙信ばかりで辟易した。越後人はみんな謙信が好きなのは吾も異論はないが。パンフレットにかろうじて、
「現在見られるような広大な城に整備されるのはずっと後のことで、上杉謙信・景勝と堀氏(16世紀後半)によるものと考えられています。」
と一行堀氏が出てくるのみ。監物堀の名前の由来が出てこない。堀直政のあざなが監物だからといふのを知らないのか、それとも史料の裏づけがなく伝承のレベルでしかないから採用しなかったのか。他にも薬研堀(やげんぼり)といふ空堀跡もあって、これもおそらく誰かのあざなから取った名ではないかとおもふが、触れていない。

「この城の特徴は、山城であることに加えて、屋敷や空堀が展開する山の裾野に、延長1.2kmに及ぶ堀と土塁で総構がつくられていることです。全国的にもめずらしく、大変貴重な遺跡といわれています。」(パンフレットより)
監物堀がそれほど貴重なものであるなら、堀家が上杉との戦に備えて造ったと思われる歴史についても触れるべき也。上杉景勝が織田軍に攻められたときに造られたにしては方角が違う。すくなくとも伝承の「監物」の名は堀直政から也。

次に、林泉寺へ行った。入場料500円払い中へ入った。惣門といふ上杉謙信が春日山城から移築したといふ門があり、ちょうど冬囲いを外したばかりといふ日で、タイミングがよい。中へ入れば墓参りも自由のようで、早速堀秀政たちの墓のあるところへ。秀重、秀政、秀治の三基ある墓のうち、秀政の墓のみ少し奥で、向きも違うのだが、木陰や日の角度などもあるのか、秀政の墓のみ没年や法名がはっきり読めるが、秀重、秀治のは風化が著しく読めなかった。
堀秀政公の御墓

道哲


ほかにも上杉謙信、長尾為景、能景(謙信の父と祖父)、松平家、榊原家の墓もあり、パンフレットに墓の地図がある上、墓の前に立て札があるので見つけやすい。林泉寺の宝物館には堀氏のものは、「丸に梅鉢」の家紋入りの膳と御椀があった。写真不可だったので説明書きは記憶頼みだが、「丸に梅」の家紋は菅原姓や太宰府天満宮の信奉者がこの家紋を用いた。斉藤道三が梅の家紋を用いていて、秀治公の四代前の利房のとき道三から拝領したと伝えられている、といふ趣旨だった。秀政は「三つ盛亀甲に花菱」だった気がする。替紋(メインは定紋、サブは替紋、複数家紋をもっていることも多い)だらうか。『寛政家譜』も秀政の家系は「三亀甲」とある。林泉寺は伝え聞いたままを残しているのだろうけれども、なんとなく腑に落ちず、『堀家の歴史』にあった秀政の嫁の実家の喜多嶋家が菅原姓で、といふ記述から、あの遺品は秀治、親良の母の嫁入り道具だったのはないかとおもふ。




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