プロフィール

堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、愛知県在住29才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

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たしなむべし。
歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。
近江国の堀氏
浅井三代記』七巻の「亮政宮澤を頼み為員を可討(うつべき)計略并(ならびに)堀能登守降参事」の後半部分を引用する(『改定史籍集覧 第六冊』所収。括弧内と句読点は吾が追加した)。

 「かくて備前守(亮政)は七月二十一日、赤尾駿河守教政、井口弾正、大野木土佐守、三田村左衛門大夫を小谷の城に残し置、我身は三千五百余騎にて坂田郡へ働出、在々の侍共を押寄せ押寄せ攻め給ふに皆降人となりて會釋す。同月二十四日に門根村の城へ押寄たまふ。堀能登守は子息遠江守に両家老の樋口三郎兵衛、多良右近相添(あいそへ)山口へ出向ひ可防(ふせぐべし)と被申(もうされ)ければ、遠江守三百計りにて打て出、山口にてささへけり。もとより雙方山の切所なれば小勢なりと申せとも討破り可入(いるべく)様もなくして互に矢軍(やいくさ)して居たり。かかりける所に浅井大和守は赤尾孫三郎、海北善右衛門尉、雨森彌兵衛いさない二百騎計りの勢にて敵の城取の後の山へのひあかり、山のかさより大石を落し込ければ城中驚き騒動すること夥(おびただ)し。堀能登守は物馴れたる兵なれば走り廻りて下知しけるは、味方の兵共大手樋口が陣へ加りて防べし。後の敵に向ひ石にうたれて犬死すな、又後敵かさよりおとし来り城を攻ば其時は出向ひ可防。敵近づかざる先に出向ひうたるべからずとて追手の陣へ向ひける。斯て一両日が間息もくれずおめきさけんで攻ければ城中の兵残りすくなく落行く。能登守今はかなはじと思ひ、樋口多良を左右にして四百騎ばかり真黒になり寄手の陣へ駆込、敵を四方へ追払い城中へ引取、門をかためて防ぎければ、亮政心に思ひ給ふやう、此(この)堀は江北にて久しき家、其身も剛の者なれば討取事も不便なりと思ひ給ひ、今井肥前守、新庄駿河守(に)被仰付(おおせつけられ)噯を入給へば、堀は不斜(なのめならず)悦びて子息小次郎を人質に出し、我身は一門召具し備前守殿の御前に伺候し御礼申上、以後忠節をはげますべしと悦ぶ事限りなし。備前守は其近辺の仕置等(を)今井肥前守、新庄駿河守に被仰付。則(すなわち)堀には本領無相違(そういなく)給はり佐和山表へ重(ね)て可攻寄とて同二十七日に小谷に帰城したまひけり。」

 この戦は永正十五年(一五一八)七月のことで、浅井亮政(すけまさ)により、次々と江北の国人たちが攻め落とされて配下に組み入れられて行く過程の部分也。「討取事も不便なりと思ひ給ひ」の「不便」は難儀しそう、簡単にはいかなそう、と解釈すべきか。あるいは新発田藩の『世臣譜』に「不便」を「ふびん」と読ませている箇所があり、その読みだとすると、惜しんだ、哀れんだといふ解釈になる。堀能登守は別の箇所で頼貞、頼眞といふ諱があり、どちらかが誤植で、ネットで見る限り、現代語訳などでは頼貞を採用しているところが多い。子に遠江守がいて、家老に樋口氏がいることから堀秀村の祖父とおもはれる。子には遠江守のほかに小次郎といふ人物がいることが分かる。そして堀能登守を投降させた新庄氏、今井氏といふのは坂田郡箕浦の国人で、『寛政重修諸家譜』堀秀村の家譜には、

「堀 はじめ新庄と称し、のちあらためて堀を家号とす、」
とあり、秀基―存村(ながむら、秀村と同一人物か)―秀信と来る系図で、秀信の項には、

「秀信 実は新庄駿河守直頼が三男、近江国堀新庄今井の三家、実子なきときはたがひに三家のうちをして家督をつがしむ、よりて存村が養子となる、」とある。

 近江国の堀氏は元々は新庄氏だった事が分かる。しかし、いつから堀氏にしたのかがよく分からない。戦国武鑑というサイトで新庄氏、今井氏を調べたら、藤原秀郷の後裔俊名が近江国新庄に土着し、新庄氏を称したといふ。そして室町幕府二代将軍義詮に仕えていて、その父遠俊も尊氏に仕えていたといふ。その遠俊の弟に今井氏の初代資俊がいる。秀郷流の系図(『近江町史』収録)では遠俊の五代前の時代に堀藤太俊成といふ人が居て、新庄、今井の祖は弟の俊平の血筋。この系図では堀氏がはじめ新庄と称していたといふ『寛政家譜』と矛盾するが、堀、新庄、今井が親密な間柄であることは納得できる。『太平記』の堀次郎は秀郷流なのだらうか。浅井亮政が「此(この)堀は江北にて久しき家、」と言っていることから、堀藤太の家系が『太平記』の堀次郎、戦国時代の堀秀村へと続くのだらう。



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

この記事に対するコメント
近江堀
近江と美濃は近く 私は長浜や彦根はなどは何度か行ってます。
近江の堀家も滋賀県の中では岐阜県よりの場所をメインフィールドにしてたと思います。
安土は今ではあまり発展していなくて一度しか行ったことはありませんが名古屋に住まれているのであれば小谷、姉川、長浜、賤ヶ岳、佐和山、安土は日帰り可能です。
秀政自身近江とのかかわりも深いので最初近江堀氏とも何らかの関係があると思ってました。
私は名古屋市東区に4年半仕事で住み、津島市と名古屋市で仕事していました。
大学も4年間昭和区の大学通学していたので親近感があります。
津島市の勝幡は織田信長の生まれた場所との説もあるし、津島の湊の交易から得た富で織田秀信は織田本家をしのぐ力を持ったとの考えがあります。
津島に隣接する美和町はもともと蜂須賀村と正則村などが合併して出来た町とされ戦国武将を排出しています。
美和町を含む海部郡は名古屋市の中村区、秀吉の出身地もあり尾張、美濃、近江、京都のルートは戦国武将にまつわる話は一杯です。
私は大学を卒業して最初の赴任地が福井城の隣で越前北ノ庄城も割と近くにありました。
当時、福井と堀家との関わりは全く知らず柴田勝家だけ連想していました。
福井の勤務先には織田(おりた)さんという先輩がいたり、織田(おた)という町もあり織田家の発祥といわれる地域もあります。
話が広がります美濃、近江、福井、尾張、京都は今では十分日帰り圏内で当時としても十分交流があったと思われます。

【2008/04/28 18:59】 URL | 木堂くん #- [ 編集]


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