プロフィール

堀久太郎

Author:堀久太郎
新潟県出身、愛知県在住29才男。斯波高経より二十三代、堀直政より十五代目の子孫(分家、不確定の部分あり。)。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。自作の手書きのため、よく見るとゆがんでゐる。

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たしなむべし。
歴史、教養、道徳、社会の秩序などなど、むづかしい話をやさしく語るやさしいをのこのぶろぐ。
堀家のふるさと
先日、念願の先祖の故郷へ訪れた。まず最初は奥田氏のルーツ、稲沢市に行き、国府宮神社に参拝。尾張国の国府があったと推定される土地。そこから一駅南の奥田へ行った。奥田はなにもない普通の町だった。無理もない、先祖が居たのは五百年以上前。そこから西にある性海寺に行った。室町時代に建てられたといふ塔など古い文化財がたくさんあり、先祖もこれを見たのだろうかと感慨にふける。

そして、そこから下道で岐阜へ。木曽川を越えて岐阜に入るとき妙に感動した。境川を越えてすぐのところに茜部神社があり、昔は今の境川のあるところが濃尾の国境であったといふ。天正年間の洪水で今の木曽川の流れになり、濃尾国境も変更されたといふ。茜部神社に参拝。茜部神社の歴史の古さに驚く。神社の裏には土岐政房の墓があった。其の子らが家督をめぐってあらそふわけだ。
茜部神社


そこから北の茜部本郷へ行った。堀秀政顕彰碑に参り、比奈守神社に参拝。比奈守神社は秀政の碑から路地に入ってすぐのところ。近くにフルーツショップHORIがあった。
秀政顕彰碑

比奈守神社

比奈守神社のやうな背の高く青々とした木々は見ていると気分が落ち着く。

そして岐阜県立図書館へ。『岐阜県史』を調べて堀秀政、直政、秀重の文書など収穫あり。『堀家覚え書き』を読む。系図は戦国時代まで所々誤りも見られるが、次木の初代の人の父が近藤政成といふのが興味深い。近藤政成の長男は旗本になり、飯田市の南部に領土があり、幼少の頃は伯父の堀親良が後見していた。弟がいたのだろうか。飯田市の歴史も調べたくなった。

『岐阜県史 史料編 古代・中世一』に載っていた堀氏の史料は以下のもの。
茜部神社文書(岐阜市茜部) 堀直政書状 二通
立政寺文書(岐阜市西荘) 堀秀政書状 堀七左衛門書状 堀太郎左衛門書状
西圓寺文書(大垣市草道嶋町) 堀秀政書状
石徹白文書(郡上郡白鳥町石徹白) 堀重俊書状
寶憧坊文書(郡上郡白鳥町長瀧) 堀重俊書状(石徹白文書と同じ内容)

以後、順次紹介していこうとおもふ。



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

この記事に対するコメント
堀家覚え書き
久太郎さんありがとうございます。
覚え書きは我が家の本家のが書いた本のため歴史の専門家ではないので正確ではない面があると思います。
表紙は丸の三つ星の家紋(我が家の家紋と当然同じ)となっていたと思います。
ただし、久太郎さんのように明確な根拠のある堀家ではなく、兄弟か家来などで帰農したものが堀の姓を賜ったっものかもしれません。
ただ、私たち次木の堀家はうっすら秀政の流れを信じ、誇りに思っているようです。
私は、飯田市立図書館に行ったことがありますが秀政系の堀家に関する書籍がいくつかありました。
飯田は小さな町で図書館も小さいけど飯田城跡に堀家を奉る神社や図書館など公共施設があるのでまとめて見られます。
名古屋から飯田はそれほど大変ではないです。(豊橋から飯田線もあるし、車なら日帰りは可能です)
私は飯田市と小田原市についていずれも軽トラ、地図なしの旅でしたでロスタイムが多かったけどなんとか堀家に関連するところにはたどり着け、先祖が引き寄せていると感じることが出来ました。
茜部は今日も行きましたが我が家がある次木(なめき)から車で10分強の場所です。
【2008/05/18 21:40】 URL | 木堂くん #- [ 編集]

追伸
茜部も西荘は比較的近くです。(次木から西荘は10分もかからないです)
【2008/05/18 21:43】 URL | 木堂くん #- [ 編集]

近藤政成
飯田は新潟から来るときに中央道通ってきました。阿智パーキングエリアで休憩しました。それに比べれば近いもんです。

近藤政成が31歳で没したとき、長男は7歳。兄弟がいてもなんら不思議はないです。政成は堀家改易後は松平忠輝の配下として、信濃高井郡に五千石、美濃の安八、山県、石津、中島郡に五千石領していたそうです。美濃にも所領があったとは。其の子がその領内か近辺で帰農したのかも。政成は秀政の四男なので次木の堀家は秀政の子孫です。

正史、公的な史料と矛盾しなければ家伝は貴重な史料となりうるとおもいます。矛盾しているところは修正しなければなりませんが。
【2008/05/19 20:00】 URL | 堀久太郎 #- [ 編集]


突然のコメント、お許し下さい。「堀久太郎」で検索、ここにたどり着きました。
皆さんのブログ、とても興味深く拝見させていただきました。
と、申しますのも私事ではありますが、幼少の頃、彼の茜部新所に住み茜部小学校に通っておりました。今は縁あって石川県金沢市に住んでおります。そして、結論から申しますと、私の義父は「堀久太郎秀政」の直系の子孫です。私は詳しくないのですが、忠俊の後、加賀の前田家に仕え、長い年月を経て現在に至っています。一度、新潟、飯田、茜部の碑、福井の秀政像画など先祖の足跡をたどってみたいと思っています。また、ここに立ち寄らせて下さい。
【2008/05/25 16:27】 URL | 茜部政材 #- [ 編集]

静原 堀氏のこと
静原堀氏とは

堀秀政次男親良は慶長7年(1602)病を得て(この病気は疑問)兄秀治の次男鶴千代を養子とし、自分は隠栖料1万2000石をもらって父秀政の旧宅京都伏見に隠栖していた。このとき若干23才であった。

その後慶長11年(1606)に実子親昌が生まれ、続いて静原堀氏の始祖となった道益が生まれた。いずれも親良の側室であった近藤氏の女を母としていた。(近藤氏は秀政の譜代家臣の家柄)このとき、どうしたことか鶴千代は死んでいた。
当時の政治情勢はきびしく、本家である秀治家は忠俊の代に改易され、断絶したが、難を避けていた親良が幕府に復帰を願い出て許される。

徳川秀忠に仕えることとなり江戸に出仕するが、同じ母を持つわが子の将来を案じ、弟の道益を京都洛北の静原の地に隠した。かくして静原堀氏は誕生した。

以降、武士でも農民でもない家系となったが、堀の姓で鞍馬寺の重鎮に、また都に出ては花山院家の侍臣として名をなし、その一人は対馬の守の役職を得て今日に至っている。
【2008/05/25 22:45】 URL | syouzou hori #fv1d0jBM [ 編集]

感激
次々と同族の歴史が明らかになってきて、これもインターネットという手段のおかげ。ありがたやありがたや。

加賀の堀氏のこともっと知りたいです。忠俊の家系は何石知行していたんですか?秀重の四男安重の加賀藩にいたみたいですが、この二つの家系や加賀藩の家臣に関して図書館に史料などはありますか?金沢に堀麦水という俳人がいたらしいですが忠俊の家系?知っている範囲でよいので教えてほしいです。東海北陸道が開通したら金沢も行ってみようと思ってました。

静原堀氏という家系もあったとは。やはり書物だけでは語りきれない歴史物語があるもんなんですね。
【2008/05/26 19:36】 URL | 堀久太郎 #- [ 編集]


ちょっと見ない間に、いろいろ展開してますね〜。いろんな所から堀家ゆかりの方々の書き込みがあって、大変興味深いです。堀久太郎さんがまさか岐阜周辺にいらっしゃってるとは。是非ともいろいろ見ていって下さい。愛知県長久手町には長久手の戦いに関する資料館があって、堀秀政の活躍っぷりが堪能できますよ。あと滋賀県には小谷城近くの虎御前山にも秀政の陣地跡があったり、賤ヶ岳の戦いで、秀政の守った東野山の砦跡なんかもあります。安土城にも秀政屋敷跡があって、信長の信頼度が高かったことも伺わせます。・・・いずれも堀一族の中ではメジャー所ばっかりですね。すいません。そのうち、ここで集まった各家の家伝・伝承などまとめると、面白いですよね。
【2008/05/28 00:16】 URL | 岐阜の堀久 #- [ 編集]


長久手はこないだ行ったんですが全部見れず、また今度行きます。
近江の方の史跡は知りませんでした。もし私が知っていても、他にも見ている人がいるので、ブログに載っていない情報があったらこれからもコメントください。
【2008/05/29 19:30】 URL | 堀久太郎 #- [ 編集]


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